サルトルはやはり実存主義者ーを痛感した一文節です
(右図の下、スライド2葉をご参照)


 部族民通信ホームページ 投稿 令和8年6月20日  発足開設元年6月10日
 
 サイト主宰
蕃神(ハカミ)義男
       部族民通信 

サルトル「弁証法理性批判」Critique la Raison Dialectique

La Méthode Progressive-régressive 前進後退のConclusion

 
 

本章は頁数にして40を超す、すべての紹介は難しいので、章頭の一文をまず引用する。 « Nous acceptons sans réserve les thèses exposées par Engels dans sa lettre à Marx : les hommes font leur histoire eux même, dans un milieu donné qui les conditionne » マルクスに宛てた書状でエンゲルスが表明する主題を、我々は予断なしに受け入れる。それは「人間は囲まれる環境に条件付けられ、その中で己の歴史を造る」

本文を通り過ぎ、章末に設けられる8頁(103111頁)の「Conclusion結語」は簡潔にして簡明にまとまっているので、この部分を本章の紹介として解説します。

Conclusionの第一行: « Depuis Kierkegaard, un certain nombre d'idéologues, dans leur effort pour distinguer l’être du savoir, ont été amenés de mieux décrire ce que nous pourrions appeler la « région ontologique » des existences » (page 103). キルケゴール以来一定の数の思想家が、存在から知を峻別する思索の流れを追求していた。それら学究の目的は「存在の本質論」はいかに可能か―に収斂される。

キルケゴールをSNSGoogle Ai)に探る:「実存の父」と呼ばれる。自分の真理(主観的真理)を重視し、根源的な「絶望」や「不安」と向き合う信仰中略。ニーチェ、フッサール、ヤスパースの名が続きサルトルに至る。フツーに理解されている実存主義の系譜です。

自らの思想源流はキルケゴールに遡るとサルトルは述べている。本結語でも対象への取り組みにまさにキルケゴール姿勢と感じられる描写にであう。一方でおそれなど感性による自己存在への向き合いに、サルトルは批判も入れている=既投稿。

章頭と結語の第一行を合わせ、読み進め方を考えると;この結語での表現はヘーゲルの弁証法、その反主題としてキルケゴールの姿勢、そしてマルクス歴史弁証法が大半となるーと予測する。目下の文節は抽象語の連なりで、何を語るかはチンプン状態に陥るが、弁証法みたいならヘーゲルかマルクスか、実存的ならキルケゴールか。こうしたヤマカンを当てて読み直すと文意が浮かんでくる。これら先達の論点、思想に沿いつつ、自身の論旨を組み立てていると思える。

こうした文の流れでサルトルは自説を組み立てる。まず存在のありか、これまでの実存主義著作とはここで一線を隔す(本書執筆の動機はポーランド出版社の依頼、実存主義とマルクス主義の融合を目指した。序章=既投稿)。ここでpraxis行動が浮き上がってくる。

以下、主要な文節を引用してサルトルの「実存主義的」歴史弁証法を、ヘーゲルマルクスらの思考と重ね合わせて追う。

 « D'abord parce qu’il (homme) peut être historique, c'est-à-dire se définir sans cesse par sa propre praxis à travers les changements subis ou provoqués et leur intériorisation puis le dépassement même des relations intériorisées. Ensuite parce qu'il se caractérise comme l’existant que nous sommes » (page 104). まず、ヒトは歴史的であらねばならない、己本来のpraxis行動によって、間断無しに自身の定義の確認する、変化によってもたらされ触発される事象を、自己に取り込み乗り越えるヒトは発展する。そのうえで我々がそうであるかに、存在する者として性格づける。

部族民:個人感想を語る;「自身の定義の確認、取り込み乗り越え、存在する者、性格づけ」はキルケゴールを読む気分になった。さらに個からの発信と繰り返し、弁証法的実存の骨格がpraxisに乗せられていると読む。

個がいかに歴史に参画できるか、その道筋をサルトルは本著で展開する。「ヒトは歴史的」であるがその原点。個の位置する座標は歴史流れの中に定められている、その座標を知りそして確定するための手段(méthode)がpraxisです。認識から始まり行動に進展するpraxisの様が記述(後文)される。

Praxisはマルクスで用いられる(もとはギリシャ語、プラトンなんかが使ったかも、この辺り無視)は変革を伴う「労働」であって概念的です。サルトルは認識を起点とする思索行為に肉付けし、「必要、否定、乗り越え」など工程分解し、具体性を加味した。さらにこの(経時的思考)手法を(共時を専らとする)人類学に応用し「歴史弁証法人類学」の創始を提案する(=これらが後述される)。

 « il va de soi que l'existentialisme pose lui-même la question de ses relations fondamentales avec l'ensemble des disciplines qu'on réunit sous le nom d'anthropologie … les sciences de l’homme ne s'interrogent pas sur l'homme : elles étudient les relations des faits humains et l’homme apparaît comme un milieu signifiant (déterminable par des significations) dans lequel des faits particuliers (structures d'une société, d'un groupe, évolution des institutions, etc.) se constituent » いわゆる人類学の名で集合される学問との互いの関係性、これは根本部分であり、実存主義は自らに問いかける。これは大いにあり得る=中略=ヒトの科学(いわゆる人類学)はヒトを問うものではない。人の事象同士の関連、さらには意味を持つ場で人がどのように表現されるのか、それらの意味合い(社会構造、集団の組成、制度の変遷など)はいかにして継続されるかを対象とする。

この後の文節で「人類学は発展するにつれ人間を否定する方向」に向かう。 « anthropomorphisme » にその起因があると指摘する。直訳すると人間形態主義、ここでの形態は身体有様ではなく、信仰、制度、慣習など社会などの人が介在する制度の形態と見たい。

部族民:人類学とはレヴィストロースが掲げる「構造」人類学に他ならない。Anthropomorphismeの例として婚姻には制度が介在しそれは交叉いとこ婚にあるとレヴィストロースは主張する。このあたりをサルトルはmorphisme形態重視、モノ対象(objet) を学んでいるだけで、ヒトの現実réalité de l’homme に向かっていないーと批判する。

筋道から離れるが、一の言葉について述べる。 « Savoir » (知)。大文字で始まる知はヘーゲルの絶対知を表す。一文を紹介すると « partant de même Savoir » 絶対知から離れて。この語の含意をサルトルは「自己完結(en-soi)する知、固定し発展しない凝り固まった知」と決める。一方、自身の知は「人の真実」、こちらは常に考え、思考を発信し、社会に立ち向かう「行動する知」となり、自己の歴史座標を追い求める。本書の鍵語はpraxis(行動)、その起点が己の本来性(propre)に遡る。この知は本来性の内に理性として控える。

続いて;一つの挿話。Gothul語を遣うMurai族なる架空話に入る。欧米人とは言葉が通じない、Gothulを知る民俗学者とは話が通じる。サルトルはこれを相反する2状況(性質は異なるが通話はできる)と決めつけ、そこから « le mouvement de l’anthropologie suscite à nouveau et sous une forme neuve « l’idéologie » de l'existence » 人類学はあらたにそして新しい思考原理の下に、存在の思想を励起させると予言する。

 

サルトル「弁証法理性批判」Critique la Raison Dialectique

La Méthode Progressive-régressive 前進後退のConclusion I

 

 

サルトル「弁証法理性批判」Critique la Raison Dialectique

La Méthode Progressive-régressive 前進後退のConclusion II

前回までのまとめとしてパワーポイントスライドを掲載する (右図上)。

結語の後半を読み改正するに至った(右図下)

 

 « Expliciter cette compréhension ne conduit nullement à trouver les notions abstraites dont la combinaison pourrait la restituer dans le Savoir conceptuel mais à reproduire soi-même le mouvement dialectique qui part des données subies et s'élève l'activité signifiante » この理解(*説明は訳の後))を明確に自己のものとする、すると幾つもの抽象概念、それら結びつきが絶対知 (大文字で始まる知Savoir=前回説明) の概念にはまり込むのだが、それを避ける事ができ理解を変節させる要因にも影響を受けない。自身の中での弁証法の動き、すなわち意味のある活動に向かうーこれを実現することが重要なのだ。

*この理解=前文から=人の社会位置は労働との関わり合いによって決まるが、本人には明確とは言えない。それが内側に籠っても、維持されている。言うなれば労働との関わり位置の実存、その理解。

 

 « Cette compréhension qui ne se distingue pas de la praxis est à la l'existence immédiate (puisqu'elle se produit comme le mouvement de l'action) et le fondement d'une connaissance indirecte de l’existence (puisqu'elle comprend l'existence de l'autre) » 105頁)この理解こそpraxisと同一であり、かつその場の(介在を受けない)存在に向きあうにつながる。なぜなら存在が(praxisの)流れを形成するのだから。さらに存在の間接的認識の基礎を生む。なぜなら自己存在は他者の存在と重ね合うから。

 

部族民:引用の2文は一の文節をなす。第一文で「理解」について述べる=前述。

第二文では行動praxisが起動すると述べる。理解はヒトの実際 (réalité) 、すなわち(介在を伴わない)存在=実存となり、徐々に実存理解に近づく。さらに個の実存と他者の実存をのべる。Praxisには個と集団(individuelcollectivité)で躍動するのだが、他者を介して集団praxisにつながる。

 

(私見)人類学は社会、族民、集団を研究対象にする。実存主義は個の認識過程を説明する。実存主義人類学を創設するには集団を説明する要に駆られる。Praxisを個から他者、集団に敷衍させ人類学に、さらにはマルクス歴史弁証法にも近づく。

 

続いて; « La dialectique elle-même qui ne saurait faire l’objet des concepts, parce que son mouvement les engendre et les dissout tous n'apparaît, comme Histoire et comme Raison historique, que sur le fondement de l'existence, car elle est par elle-même le développement de la praxis et la praxis est en elle-même inconcevable sans le besoin5 la transcendance, et le projet » (106)

弁証法はいかなる概念からも対象を生み出してはならないはずだ。なぜなら弁証法の動き(思考)自体が概念を(自身の中で)生み、霧消するから。そして弁証法が歴史、歴史理念として発動する場とは、存在が基盤として弁証法を支える場に於いてである。なぜならそれ(弁証法)はpraxis活動そのものであって、praxisは「必要性、卓越、計画」を覚知しなければ表出しないのだから。

 

部族民:「概念を対象にしない」は「認識が(モノの)概念生み対象に置く」ヘーゲル弁証法への批判と受け止める。歴史(大文字で始まるHistoire=歴史弁証法と読む)、歴史理念は存在(実存的)の上に発動する。すると歴史が動く背景は実存=個の歴史座標=を個が認識するところから始まる。

弁証法歴史という大舞台、筋道はpraxis、しかし実存なる看板役者が立たないと劇は進まない。

 

Praxisの筋道は « le besoin5 la transcendance, et le projet » となる、分かりにくいから 後文から一節を引用する。 « Besoin, négativité, dépassement, projet, transcendance forment en effet une totalité synthétique » 訳:必要、否定、乗り越え、運動、卓越が総合された一体を形成する。

必要とは個に不足するモノとその状況の見極め。否定は「不足とは個の否定で、これが搾取だと否定する」こと。乗り越えは「搾取とはどこに」かを解明する、卓越はこの運動を統合する「実存主義の理念」と読む。praxisがまず個に蠢き、個は何やら明瞭でないかもしれない(理解=前出)けれど、表出するまでの過程(実存に目覚める)を表している。それら運動(弁証法、praxis)の前提として「実存が根底」となる。

 

サルトル「唯物史観やあらへん、実存主義弁証法歴史やで」

 

「意味論」の文脈が半ページを割くが、ここは通り過ぎる。

 

 « Ainsi l'opération réflexive - en tant qu'acte singulier et daté - peut être indéfiniment répétée. Par là-même, la dialectique s'engendre indéfiniment tout entière dans chaque processus dialectique, qu'il soit individuel ou collectif » (page107)

かく自照する行動(必要卓越を常に確認するpraxis)、その作戦は個別で時限的であるにせよ、(一般的に)無限に繰り返す。そのことから弁証法も、(発生するたびに)それぞれの過程において、全容(必要卓越)が繰り返す。個としてそして集団として。

 

部族民:序章(=既投稿)において歴史は「個の思想家が改革を訴え、多数を誘導し社会が変わる」と分析しデカルト、ヘーゲルの例を挙げた。その流れをpraxisに還元し、より精緻な精神過程に実存主義の手法を(そのまま)取り込み、書き換えた。個も集団もpraxisの原理で行動に入るーとサルトルは諭す。個から集団へ移り変わる機構を理念的に「自己の存在に他者の存在を重ね合うcomprendre=前出」としたが、その実情を(必要卓越)に押し込み、達成した。

 

更に;マルクスは唯物論を土台にして歴史弁証法を述べた。サルトルはヒトの認識を起点として(ここまではデカルト、カントなどと同じ)個が実存(歴史座標)を発見し、praxis(行動)に乗り込み、歴史を作る。そして « pratico-inerte » を経て、新たな実存を求めpraxis(必要...)を再び発動させる。この弁証法的歴史は実存をへて繰り返すのだと述べる。

 

  « Le véritable rôle des « idéologies de l'existence » n'est pas de décrire une abstraite « réalité humaine » qui n'a jamais existé, mais de rappeler sans cesse à l'anthropologie la dimension existentielle des processus étudiés. L'anthropologie n'étudie que des concepts. Or, l’homme est l'être par qui le devenir-objet vient à l’homme » (ditto)

「存在の思想」の真の役割は、存在したはずもない、とある一つの人間の抽象的真実を認めるのではない。休むことなく原寸大の存在を洗い出し、それを人類学に呼び掛けているのだ。人類学とは概念のみを研究対象とする。しかるにヒトとは存在であって、そこから「devenir-objet成りうべき対象」がヒトに還流するのだ。

 

部族民:(サルトル)人類学は(出来上がっている)概念を追求する。この語を「親族の基本構造、レヴィストロース著」に照らす=一部は前述。「部族の結婚形態は交叉いとこ婚が多い。XXX部族ではその仕組みに一般化交換を採り入れた」とする文節がある。この中の交叉いとこ婚、交換はそれらが対象として(モノとして)出来上がっている。それを掘り起こしているのであるーサルトルは批判する。しかし実存主義歴史学では「成りうべき対象」 « devenir objet » を取り扱う。この語の意味をpraxisに訊ねる。必要、否定と続く存在の精神運動、この一の過程を経ることで弁証法歴史が成就する。認識が思索し行動を促し、歴史の一段階を達成する。これをして「成りうべき対象」と呼ぶ(部族民解釈)

 

 « Se comprendre, comprendre l'autre, exister, agir : un seul et même mouvement qui fonde la connaissance directe et conceptuelle sur la connaissance indirecte et compréhensive, mais sans jamais quitter le concret, c'est-à-dire l'histoire ou, plus exactement, qui comprend ce qu’il sait. »

己を理解する、他者を理解する、存在する、活動する。これらが一つの運動となって、間接的で「理解する」認識の上に、直接かつ概念的認識の基礎を形成する。決して具体性すなわち歴史から、別の言い方で、知ることを理解する状態から離れないまま。

 

文章前半はpraxisの運動形態を語る。「;」以降は、その運動が認識を形作る。それは2の相互作用する認識に収斂すると述べる。 « connaissance indirecte et compréhensive » 間接的で「理解する」認識 は、理性として本来個に備わる認識。その上にpraxisで起動する認識(これがdirecte et conceptuelle直接で概念的)が乗る。概念的とは「事象を概念に置き換える」=空腹という肉体条件は「搾取」されている概念と気づく、この概念認識がpraxis上に露出しないと、ただ腹減った~と労働者は泣くだけで、歴史行動に向かえない。前引用文の論理肉付けと理解する。

 

余談;本来備わる認識をヘーゲルの « en-soi » 覚自、praxisで起動する認識を « pour-soi » 律自に置き換え読んだ。

 

 « Cette perpétuelle dissolution de l’intellection dans la compréhension et, inversement, la perpétuelle redescente qui introduit la compréhension dans l'intellection comme dimension de non-savoir rationnel au sein du savoir, c'est l'ambiguïté même d'une discipline dans laquelle le questionneur, la question et le questionné ne font qu'un »

理解へ向かっての知性の絶え間ない融解、そして反対方向として、あたかも理性的ながら「知」の内での「非の知」の存在のごとく、理解の知性への絶え間ない吐出。問いを発する者、その問い、問いを受けるものが一つの塊でまとまってしまう「学」の曖昧さでもある。

 

部族民:intellectionなる仏語に存在しない単語が出てきた。Intellect は辞書に参照できる、それは認識する力(faculté de connaitre)。するとこの造語は認識connaissanceに近いがその活動状態(スイッチオン)を言い表す(とサルトルが含意付けしたかったはずと独断する)。スイッチオンしてるpraxis認識が本来の認識(en-soi)に間断なく溶融していく。その逆、本来の認識をスイッチオンのpraxis認識に導入する絶え間ない降臨。まさに「非知」ながら論理(本来の知)が、実質の知(praxis知)に割り込む原寸の実況中継です。

問いを発する者(praxisの知)、その問い(praxis)、問いを受ける者(実存主義歴史弁証法)が一つの塊でしかない。

余談:ambiguïté を曖昧さと訳したが、本義は「2以上の意味を持つ」で「このとある一つの学(実存主義歴史弁証法)に含包される」多義統合性、すなわち実存主義です。文脈では « équivoque » がしっくり行くが、こちらはレヴィストロースに遣われているので避けた(は邪推です)。

 

以上、Conclusionの文章の流れを紹介した。キルケゴール、ヘーゲル、マルクスの思考と方法論が色濃く反映されている。自身の主張「実存主義のマルクス主義への移植」への補強としてそれらを用いながら、サルトル自身の思考回路が整然と記されている。骨子は存在、認識、個のpraxis、歴史参画、集団praxisそして実存による歴史成就となる。

 

最後の一文が実存主義とマルクス主義の融和を自からの筆で説明する。

 « Ces considérations permettent de comprendre pourquoi nous pouvons à la fois nous déclarer en accord profond avec la philosophie marxiste et maintenir provisoirement l’autonomie de l’idéologie existentielle. Il n'est pas douteux en effet que le marxisme apparaisse aujourd'hui comme la seule anthropologie possible qui doive être à la fois historique et structurelle. C'est la seule, en mène temps, qui prenne l’homme dans sa totalité, c'est- à-dire à partir de la matérialité de sa condition »

これらの省察が、存在の主義とマルクス主義は強く連携できる、それ(実存主義)は独立を維持できると我々は宣言できる。マルクス主義は歴史的かつ構造的であるは疑いようがない、故に唯一の人間学となりうる。ヒトを全体として取り上げ生存条件を物質性から説く人間学でもある。

 

サルトル「弁証法理性批判」Critique la Raison Dialectique

La Méthode Progressive-régressive 前進後退のConclusion 了

 















弁証法理性批判(1960年発刊)
の内表紙











前進後退の章に
結語(8頁)が設けられる
サルトル思想の凝縮










ヒトは歴史的であらねばならない=己の歴史位置(歴史座標)なる実存に目覚めよ



















































歴史弁証法の主体はPraxis
とした図表(上)しかし本
結語を読み進めるにつれ
「違う」と感じた





 

己の歴史位置(歴史座標)なる実存こそが歴史の主体である。