| 部族民通信ホームページ 投稿 令和7年6月30日 発足開設元年6月10日 |
サイト主宰 蕃神(ハカミ)義男 |
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| クロードレヴィストロース著悲しき熱帯Tristes
Tropiques の紹介 前文 及び VI章いかにして余は民族学者になったか |
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(2025年6月30日)1950~60年代に知識層の好奇心を湧きたて「パリは洛陽、紙価を高めた」書。 前文
人気の理由 1軽妙な語り口。第一行目から一人称単数Jeを用いる « Je hais les voyages et les explorateurs »「私はあらゆる旅が嫌いだ、探検家も嫌いだ」読者の意表を覆す言い回し。本書を購読する御仁であれば、彼は民族学者と知る。その彼が調査を嫌うとは(民族学者とは一度は現地調査して、族民の社会実体を報告しないと認められない)。 その2 民族学の一級資料を提供する。本書圧巻はBororo族の訪問、ブラジル中央高地 (マトグロッソ) 有力部族であるにもかかわらず資料はなかった(サレジオ修道会が調査を排他し、ひたすら開化宣教していた)。経験を積んだ民族学者として初めて(サレジオ会の教導が失敗し、族民が「文化村」から大脱走してしまった)の訪問と報告。生死観の解説、祭儀の報告などBororo族民の精神に入り込んだ描写には感銘を受ける。 3 熱帯ではない温帯社会の悲しみ。当時(二次大戦前)のパリ、大学、教師、学生の行動風景が広がる。例えば「幼稚な論理に凝り固まって、腕を大振りして自説を強弁するソルボンヌ哲学教授」の描写は、それまでの書物には絶対に出てこない。 前述とおり同氏著作で本書は(例外的に?)広く多くの方に読まれている。理由を追加すると、哲学とか構造主義とかが頻繁に出てこない配慮は大きい。しかし部族民は彼自身(哲学者としての)内面、理性観、世界観を述懐するいくつかの文節を採り上げます。これらが非常に面白い。 他著作(野生の思考など人類学文献)でも思索を述べる段はあるのですが、あくまでその書の表題からは踏み外せない。一方で本書の建前は紀行文、学術文にはありえない思いつくまま、自由闊達な主張が散見される。それらにやはり哲学者、含蓄深い訴えかけに出くわす。このあたりが本書の読みどころであります。鋭意紹介に励む。 採り上げる章は:本書第二部 « Feuille de route » 旅の紙片のVI章 « Comment on devient ethnologue » いかにして余は民族学者になったか52~64頁、 « Ecrit en bateau » 船上で記す。67~74頁、 « Les vivants et les morts » 死者と生者265~284頁、「世界はヒトなしで始まった…495頁」合わせて5回の投稿を予定します。 (TristesTropiquesの今回投稿の一部は2022年10月に起稿分を加筆訂正しています) VI Comment on devient ethnologue いかにして余は民族学者になったかの本文第一回。
リセ最終年での挿話が軽く挟まれる。指導の哲学教授が法学進学を助言した(リセ最終年は大学入学資格バカロレアの準備で理系文系とも哲学受講は必須。教師は教授資格 agrégé 所有者、リセながら教授。ちなみに最終年は5年生、レヴィストロースは飛び級して4年16歳で入学資格クラスに入った)。高等師範学校Ecole Normale Supérieure に向かわず学部ソルボンヌSorbonneに入学した。しかし実学の法学に彼は馴染めなかった。哲学に軌道修正する。(もし哲学を望み高等師範に入学していたなら、同級のサルトル、ボーボワール、メルロ・ポンティに出くわしたはず) 哲学にも彼は馴染めなかった: « Je préparais l'agrégation de philosophie vers quoi m'avait poussé moins une vocation véritable que la répugnance éprouvée au contact des autres études dont j’avais tâté jusque-là. » (page 52) 哲学の教授資格試験の準備を始めた。しかしそれに対して熱心な意思は覚えず、逆に嫌悪を感じてしまう。他の学問を聞きかじりしているからなおさら。 (16歳にして大学進学資格を合格、17歳で学部入学したWikipedia) この後、一元理性論(monisme)に傾倒しているとの文が置かれる。 « J’ai été vaguement imbu d’un monisme rationalisme » この文は所在位置の意味が不明なのでその辺りを想像する;一元論の語ではスピノザを思い起こすが、無神論者のレヴィストロースには唐突すぎる。辞書で調べるとカントも一元論に組み入れられる(らしい)。Transcendantal先験の単原理が思考を支配する意味合いか。彼自身「20世紀の知識人としてカントを信奉する」と述べている。まず、自身の思想基盤をさりげなく開陳した(と思う)。 更には後段への予備構え、弁証法(=マルクス主義)には与しないを匂わしているのか。急進的と取り沙汰される教授の講義を申し込む。
« Il est vrai que Gustave Rodrigues était un militant du parti S.F.I.O., mais, sur le plan philosophique, sa doctrine offrait un mélange de bergsonisme et de néo-kantisme qui décevait rudement mon espérance. Au service d'une sècheresse dogmatique, il mettait une ferveur qui se traduisait tout au long de son cours par une gesticulation passionnée. Je n'ai jamais connu autant de conviction candide associée à une réflexion plus maigre. Il s'est suicidé en 1940 lors de l'entrée des Allemands à Paris. » 哲学教授RodriguesはSFIO*の支持者、戦士である。哲学の立場ではベルグソンと新カント主義の混ぜ合わせを講義した。これが私の希望を見事に砕いた。教条的に干からびた授業の間中、熱心に主張を説くのだが、そのやり方は勢いつけて手を振り回すだけだった。私は、それまでに、なんとも貧しい思考が、これほどにもあどけない取り憑かれと結びついている様は見たことがない。彼はドイツ軍のパリ進駐(1940年)に自殺した。
*社会主義党と訳されるが実質は共産主義である。戦前の左派協調運動Front populaire 人民戦線の主要政党。戦争勃発直前の内閣首班レオン・ブルーム、S.F.I.O.党首。 部族民:レヴィストロースを幻滅させたのはこの教授が信奉するベルグソン哲学。時間の概念を個人の感覚におとしめるは、当たり前とすればそのとおりだが、それが哲学なのかとの疑問を(レヴィストロースは)抱く。その当たり前さを新カント主義のレッテルで拍付けしただけ。「なんとも貧しい思考」と評した(この批判は部族民の個人憶測です)。 自ら « monisme rationaliste » 一元理性論に立ち返った; « Là, j'ai commencé à apprendre que tout problème, grave ou futile, peut être liquidé par l'application d'une méthode, toujours identique, qui consiste à opposer deux vues… forme et fond, contenant et contenu, être et paraître, continu et discontinu, essence et existence » この状況下、私は、重厚でも軽薄でもいかなる課題を解決する一つのやり方で解決する手法を学んだ。2の対立概念、形態と質、外形と中身、存在すると見えている…などを対比させるのだ。 レヴィストロースは学部5年(Doctorat課程もあわせ)でこの対立概念の突き合わせ手法にのめり込んだのだが、反省を迎えた « Non seulement la méthode fournit un passe-partout, mais elle incite à n'apercevoir dans la richesse des thèmes de réflexion qu'une forme unique, toujours semblable, à condition d'y apporter quelques correctifs élémentaires : un peu comme une musique qui se réduirait à une seule mélodie, dès qu'on a compris que celle-ci se lit tantôt en de de sol et tantôt en clé de fa. » (Page53) この手法はどの問題も解決するパスパルトゥ鍵を用意できるのは是としても、提題に含有される豊かな主題を一つの、常に似たりよったりの要素にしか還元しない。音楽で例えれば楽曲をド、高音部のソなどと読み、一のメロディに縮小させるだけのものだった。 部族民:2の対立概念は構造主義の基本である「実体と表象」にも繋がる。しかしこの時点(学部生)では思いつき程度(calembour地口とは本人の弁)なので効果は貧弱。後に構造言語学「意味する・意味される」に出会って、表象の意味を重厚に加味した構造主義思想に行き着く。 « l’enseignement philosophique devenait comparable à celui d’une histoire de l'art qui proclamerait le gothique nécessairement supérieur au roman, et, dans l’ordre du premier, le flamboyant plus parfait que le primitif, mais où personne ne se demanderait ce qui est beau et ce qui ne l’est pas. » (page 54) 哲学教育は美術史のそれと比較できる。美術史ではゴチックはロマネスクを超える、柱装飾の円熟期フラムボワヤンは原初の簡素装飾よりも上と決めつける。その判定の元となる美の基準はどこにあるのか、問いかけなどしない。 « Le signifiant ne se rapportait à aucun signifié, il n'y avait plus de référent. » 意味するモノはいかなる意味されるモノに対応していない。共通項がないのだから。 部族民:突然、構造言語学の用語「意味する意味される...」が入ってくる。ここでの意味は、例えとしてゴチック(意味するモノ)が(意味される)何かの建造物を特定していないと受け止める。美術史専門にすればゴチックもロマネスクも基準が設けられているから、思想と実体の結びつきは確固としているの反論はあろう。この結びつきの不定を哲学に当てはめて、何かの哲学用語が示す客体が何かは、特定できないとレヴィストロースは言っている(その哲学での実例を挙げていない)。 « je devine des causes plus personnelles au dégout rapide qui m’éloigna de la philosophie et me fit m'accrocher à l’ethnographie comme à une planche de salut. » 私は哲学からは遠ざかる、個人的嫌悪感を持つ。私は民族学を救いの盾として掴むのだった。 « Reçu à mon premier concours, cadet de ma promotion, j’avais sans fatigue remporté ce rallye à travers les doctrines, les théories et les hypothèses. Mais c'est ensuite que mon supplice allait commencer : il me serait impossible d'articuler verbalement mes leçons si je ne m'employais chaque année à fabriquer un cours nouveau. » 教授資格試験は初回で合格を得た。昇進への小さな一歩。教義、理論、仮説を巡るラリーに身を挺した。私には毎年、内容を更改でもしない限り、講義を口にすることはできなかった。それは私に残酷な仕打ちが始まったと感じる次第であった。 部族民:哲学とは大家の解釈が行き渡る。その趣旨に沿って講義内容を決めれば、10年20年は金科玉条で使える。レヴィストロースはその停滞感を受け入れられなかったのだろう。後々、哲学を志向した者が糧を得る姿を1哲学教師 2哲学的売文家 3哲学から離れる の3通りとして1の教師は最も退屈だと否定している。 « Aujourd'hui, je me demande parfois si l'ethnographie ne m'a pas appelé, sans que je m’en doute, en raison d'une affinité de structure entre les civilisations qu'elle étudie et celle de ma propre pensée. Les aptitudes me manquent pour garder sagement en culture un domaine dont, année après année, je recueillerais les moissons : J’ai l'intelligence néolithique. Pareille aux feux de brousse indigènes, elle embrase des sols parfois inexplorés ; elle les féconde pour en tirer hâtivement quelques récoltes, et laisse derrière elle un territoire dévaste. » (page 55) 今日になって私の元々の考えかたと、民族学が採り上げる文明の構造の近似の故に、民族学側は私を誘わなかったと、私は、感じ入る。年が経て資料、調査の収穫が収まるはずが、それを溜め込むという才に恵まれていない。新石器時代の知性しか私は持ち合わせない。茂みの火を囲み、未開の地を抱擁し幾ばくかの収穫を掠め荒廃させ、その地を去る先住民の知恵と同じである。 部族民:解釈しにくい点1民族学側は誘わなかった 2その理由が私の社会感と民族学の文明感が近似しているから。普通は感性が類似すれば呼び合うと語る。この真逆とは?己の知性を新石器人類と同じーこの陳述にも理解が届かない。そこで大意訳を試みる。 上記はRodriguesに代表される哲学者の思索過程と、私レヴィストロースのそれは正反対なのだと伝える。常に資料をあさり新しい知見を獲得する。後に私は何も残さない。民族学が私を呼んだのではない、こうした研究にのめり込みたいから、私が民族学を選んだのだ。この解釈に漕ぎ着いたが、ご批判を仰ぐ。 VI Comment on devient ethnologue いかにして余は民族学者になったかの本文第一回 了 (6月30日) |
![]() 悲しき熱帯ポッケト版表紙 Bororo族の少年 ポケット版内表紙 1973年に仏翰林院会員 に選出された。その 会員資格、 また前文に2009年没 が記されている。部族民 が購入したのは2010年。 永く再版が続いていたと 思える。 |
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