サルトル批判は2019年に初めて出稿した。内容に不満があるので、今回書き直した。過去の投稿歴は:本サイト2019年7月31日(サルトル批判)、2020年10月31日(心理分析実存主義三題噺、動画収録サイトに投稿)
動画収録サイト.tribesmytube.com.動画サイトにはPDF資料が掲載される。また動画はyoutubeにも投稿されている。検索の語は「部族民通信」でGoogle、youtube共に上位ヒットする(蕃神)。
部族民通信ホームページ 開設元年6月10日 投稿2021年4月1日 |
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歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判1 | |||||||||
本稿は2021年3月19日からGooBlogに投稿した歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判の本サイト転載版です。Blog投稿時の日付とノンブルが付されています。 ブログ投稿日付(2021年3月19日)レヴィストロース著「野生の思考La pensee sauvage1961年出版」の第9章(最終章)Histoire et dialectique歴史と弁証法 はサルトルの理性論、歴史観への批判です。小筆(蕃神)は実は2019年にブログ、ホームサイトにこの紹介を投稿している(追記に案内が)。これら記事へのご訪問は今も続いており、皆様の関心の高さが伺えます。しかしながら今にして、サルトル原書「La critique de la raison dialectique弁証法理性の批判」に接していない事、レヴィストロースの修辞にも理解至らずの解釈が多々あり書き足りなさを感じていた。サルトル原典を購入のつもりでアマゾンを開けたら、価格がこなれていない、700ページを越す、サルトル用語の連なりだろうから読めない。となると銭ページ頭内の3重苦に苦しむが必至、原典の読破は諦めました。 今回も原典には立ち入らずサルトル批判を解説する。 前回の書き筋は頁を逐次めくり、文言と段落を分断しては訳を試み解釈を述べた。新たな接近様態で草稿すると今回、決めた。レヴィストロースの基本的な主張、伝えかけを分解し論の流れをたどる。頁たどりの逐次説明に陥らず、反面、行ったり来たり頁開きの閉じ分解でナイフの切れ味裁きを試みる。レヴィストロース思考のオートプシ(解剖)を狙ったつもりだが、皮相観察に終わるかもしれぬ。辛辣な批判をお持ちします。 <Ne perdre pas de vue視野を失するな>が大事について。 本文にはこれと同じ言い回しが散見します。<Mais sans perdre de vue que la raison analytique tient une place…>しかし視野を失しななければ分析的理性が占める位置の重要さに…(300頁)<nous ne perdons pas de vue que le verbe XX…ここで視野を失ってはならない、動詞XXは…>(295頁)など。 Vueの意味は視野、視界。意を拡大し「見たモノを理解する様、Robert」です。よって「視野を失うなかれ」としたし「見て理解した内容を忘れるな」に拡大できるかも知れぬ。この句が置かれる文脈とはレヴィストロースとサルトルの思考が深刻に対峙している段落です。両者の違い点に立ち戻って「視野(見たモノ)を改め確認して」の判断を探る、この使われ方と見た。 するとvue視野を日本語的に「基準点」あるいは「原点」とすればなお分かりやすい。本投稿では有馬頼義の造語と伝わる「原点」を用います。 本書の原点とは、小筆は3点を挙げる。 原点は1の位置を占める。1しか無いから原点なのになぜ3点にのさばるか。この疑念に「文章の間口が広い」と答えます。3点を必要とするなら3次元、ならば3の座標に3ベクトルで発信している。一体そいつは何か; 1 理性論。ヘーゲルの亡霊 2 世界観、歴史 マルクスを超えたレーニン主義 3 未開文明論(西欧文明論でもある) 上3点が両者の考えの分かれ道であります。それぞれで2人が別座標、正反のベクトルで歩みを進めている。その対抗の様が本章にてどのように表現されているか、難文に出会う幾度か、原点復帰で本章を紐解きます。 1の理性論。ヘーゲルの亡霊 サルトルは宇宙、森羅万象は弁証法なる「公式」に支配されていると主張する。弁証法を「神」と受け止め歴史、社会、事象、思潮などを理解する。人の智も弁証法の配下にあると主張する。一方で人が持つ理性を捨てきれない。この矛盾が本書の底流をなす。 人の理性を支配する「神の弁証法dialectique」、個の知恵出会いかない分析思考raison analytiqueをこれに対峙させる。しかし分析を用いて宇宙を解釈し説明するのは「見せかけ屋=esthete」の怠け者の論理(サルトル本文から)にすぎないとしている。 このサルトル流の弁証法を思想史の流れから紐解くと; 弁証法とは1がプラトンに始まって~4くらいにカントの解釈が続く。これらは本稿と関連が薄いから省略。5のヘーゲルによる弁証法は; <elle est l’idee de developpement elle-meme, se developpe dans la nature et histoire, n’est donc que le reflet de l’automouvement personel >(Dictionnaire de la langue philosophique.Puf) 弁証法とは自然、歴史で発展するとの思想である。それ自体が人の自律思考の反映である。(個の思考が自然、歴史に反映される。唯心論の弁証法です。後のマルクス主義はこれを逆転したに留意を) <l’idealisme absolu comme la lois de la pensée et du reel, qui, progressant par negations successives (affirmation ou these, negation ou antithese) resout les contradictions en accedant a des unifications (ou, selon un vocabulaire desuet et peu precis, syntheses) > (Dictionnaire de philosophie, Nathan版) 思考と実際を統合する絶対思想である。それは連続する否定を通して発展しながら、統合(unification)に結びつき対立を解決する。連続否定とは肯定(affirmation、these、主題)の提示から始まり、その否定(negation、anti-these反主題)の繰り返しであり、統合につながる。これを(古臭い上不確かな語)サンテーズ(止揚と訳されていた)とする場合も。 思弁的とされるヘーゲル弁証法を紹介したが、皆様のご理解している処と同一と信じます。このヘーゲル説をサルトルが受け入れる。後に紹介する本文にて用いられる主要な用語(サルトル語彙)のinterioriser(内省化)、exterioriser(発露)、totaliser(総合化)がまさにヘーゲルの肯定、否定、統合の弁証法の仕組みを受け継いだ形となっています。弁証法3段階仕掛けをサルトルが自己用語解釈し直し、に取り入れている。その焼き直しはaffirmation(肯定)を事象の受けとめ(interioriser)として、negationは外に向かって発露する(exterioriser)に代わっています。 この過程に個の理性が紛れ込むのではなかろうか。事象を受け止め、そのままの形で垂れ流すが「内省し外部化する」過程などではではない筈だ。そこには個の精神活動、知恵がある、と投稿子は考えており、サルトルもそのように用いていると信ずる。 なぜなら実存主義にあっては「外部存在を知る」知り自由(思考)を得るとしているのだから。弁証法の理解に置いても、理性を持つ個が弁証法の流れに参画する。このところが重要で、「存在を知り自由を得る」実存主義の基底そのままにヘーゲル弁証法の仕組み取り入れてinterioriser、exterioriser、totaliserに繋げていると解釈します。(2021年3月19日)歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判1の了 歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判2 (2021年3月22日)本書解釈の機動力となる3の原点を 1理性論 2世界観 3未開文明論として、1におけるサルトルの立場を説明した(3月19日)。 レヴィストロースの弁証法理性を探る。カントの弁証法はrefutation知られる。 語は動詞refuterの名詞で意味として:repousser (un raisonnement, une proposition, une opinion) en demonstrant sa faussete誤謬を指摘しその説明(提案、意見)を再び取り上げる(辞書Robert)となる。まず主題を吟味して、誤りを訂正するための否定手順を取るのだと教えている。主題に誤り(faussete)が見つからなかったらfutation(反主題」を提起しない。脳髄反射とは異なり人としての「知性entendement」が明確に作用している。では個体がカントほど優秀でなく、誤謬を見過ごしたら宇宙真理に到達できないのか。ツッコミ的疑義には「そのとおり」としか答えようが無い。誤解が人の歴史真理だった訳だから。 吟味…過程は「先験trancsandantal」理性に支配される、これを先験的弁証法(dialectique transcendantale)とする。 それはまた、 <logique de l’apparence (par opp. a l’analytique qui est la logique de verite ) L’apparence de rationalite consiste dans la rigueur du raisonnnement , mais cette rigueur n’aboutit pas a la verité, car les raisonnnements dialectiques appliquent aux choses en soi, ou en noumenes , des principes qui ne valent que pour les choses pour nous , ou phenomenes. (Dictionaire de la langue philo.Puf ) 分析論理は真実を追求する論理であるが、弁証法は「形態化」(apparance)の論理である。形態化の論理行程は厳格に理性の中に存在するのだが、この厳格さは真理に到達しない。なぜなら弁証法理性は、いくつもの原理を形作るのであるが、それは物、我々、あるいは事象、それら個々にのみにしか値しないからである。 分かりにくい一文だが分解し理解しよう。 まず先験には分析理性と弁証法がある1。次に分析理性が真実理性で、その理性を用いてのみ「真理」に行き着く2。弁証法は真理を求める論理ではない。形態を探るのだとするこれが3。 形態とは(その物が)持つ事柄にのみ原理を形成するからである(一過性であり挿話的でもある)。弁証法の働き具合は個別的である。その形態化過程を他の物の形態化には応用できない。一般的化し得る分析理性とは逆となり、個別にとどまる。(以上は部族民の解釈) (デカルトが得意とする)蜜蝋を例用して分析的解析と弁証法統合を試みる; 蜜蝋は形態、感触、色、匂い…などの特質に分析される。この特質の集合体が蜜蝋である。故に差し出された物体の特質を属性分析すれば蜜蝋か、まがい物かを判定できる。この思考方法が、モノの本質を暴く思考、すなわち真理に到達する分析理性である。 ある男が差し出された蜜蝋そっくり物を「吟味したが蜜蝋ではない」と反蜜蝋(これがカント曰くのfutation)を主張した。理由は蜜蝋とは「どこか一部が異なる」。その一部を探し出すため、男は己が頭に持つ蜜蝋を思い起こし目の前の現物と照らし合わせた。形、色、匂い….(この過程がapparance=形態化)。色に違いが見つかった。「この部の黄色は本来であれば赤」。指摘によりこの個体は「欠陥蜜蝋」と判定された。蜜蝋の範疇を外れる「蜜蝋崩れ」だった。レヴィストロース弁証法はまさにこのカント弁証法である。その特質はあくまでも第一理性は分析理性であり、弁証法は分析理性の補完。本質を表す道具として概略(形態化)を用いる。 以上の堅苦しさを許してもらうに、なんのことはない、主婦がスーパーでリンゴに疵を見つけ「キズ物や、売り物にならんわ、安くして」と値切る買い物には、反作用futation(売り物ではない、安くして)なる形態化理性を総動員させて関西過程の弁証法が動いている。生活をシマツ(倹約)するに弁証法は必須なのだ。 apparance、哲学辞典ではunificationとされる過程を本書ではtotalisation統合化としている。本来サルトル用語であるがレヴィストロースも用いる。またサルトルにしかり、レヴィストロースにおいてもtotaliser(統合する)において個の理性の介在を喚起している(=前述)。 レヴィストロースの弁証法理性論(原点1)は; 現実はモノでありそれは地域、時間限定の挿話的事象でしかない。人が頭に抱く表象が挿話的事象である形モノに対峙する。この対峙関係を構造と呼ぶ。現実(形モノ)に真理は滞留していない。真理は形と表象の対峙にある、こう言えます。いわゆる「構造主義」に立ち戻ることになります(部族民の解釈)。 人が事象を見て(聞いて)それを表象として頭に残す作業はカント的先験理性に支配される。事象を属性に分解しその本質に迫る姿勢は「分析理性」です。それらを再構成して「構造化」する過程に「弁証法理性」が存在します。レヴィストロース自身が本文で「親族の基本構造」ではその進め方「分析して統合する」手法で親族を解析したと記述しています(後に引用する)。 歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判2了(2021年3月22日)文中の日付ノンブルBlog投稿の記載 歴史と弁証法サルトル批判2に跳ぶ |
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