唯物史観では歴史は弁証法なる意思を持ち、特異点(共産国家)に向かう、かくマルクスが教える。共産主義者はその特異点を規準にして行動する。共産党が往々にして教条的とされる理由は、彼らの歴史観、未来を規範にして現在を語るにあるからと感じ入っております。



(蕃神)


ボロロ族の村落(実際)
下、村落構造の概念(思想)
(図は構造人類学から)


本書第9章の章題HistoireetDialectique頁

動画「野生の思考紹介」で作成したPDF
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 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日     投稿2021年4月30日
主宰蕃神(ハカミ)義男        部族民通信  ホームページに  部族民通信 
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歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判3
未開文化論
 
   全5回(3月19日からGooBlogに10回投稿した同名のブログ稿をHP5回に書き直した)
 歴史と弁証法 サルトル批判 1 (原点を見失うな)  
同2(弁証法は思弁かモノか)   3(思想とは時間地理限定)   
4(Cogitoの俘囚)   
 5(未開人と理工科学院教授) (クリックで跳ぶ) 
本投稿の要旨を5葉のPDF化しています

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本稿は2021319日からGooBlogに投稿した歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判の本サイト転載版です。日付とノンブルはBlog投稿時のまま。

2021326日)歴史弁証法は真理であるからどの社会にも隔たりなく適用される。文明社会は資本主義が行き着く極点にたどり着いて「西欧も日本も共産社会化する間近にある」(1950年代の左翼思想の典型)と公言されるまでに至った。革命を加速せむと日本共産党が破壊工作に専念していた時期でもある。同時代、先住民社会はそうした歴史の特異点に向かう兆候など見せていない。なぜ彼らの歴史進展が遅れているのか。唯物弁証法はかの社会には適応しないのか。疑問は歴史弁証法の信奉者に投げかけられた。

対して「未開社会は文明社会とは異なる」が答え。

社会が違う理由は「人間もあわせて違うから」。この問答は「文化の優劣」の理由付けに用いられていた。論者はレヴィストロースが度々引用するレヴィブリュールなど、2世代前の社会学者であった。しかし1950年代に入っては「劣等民族」説は通用しない。そこに気づいたサルトルは一捻りした。

先住民社会が共産革命に向かう「経済の過熟」を見せていない理由を「彼らの歴史も弁証法に支配されている。しかしその弁証法は短周回式(ショートサイクル)なのだ」と決めつけた(une dialectique repetitive a court terme、サルトル著弁証法理性批判La critique de la raison dialectique本文)。さらなる「なぜ先住民はショートサイクル弁証法を選んだのか」質問には「une humanite rabougrie et difforme 出来損ないの片輪」だからさと答えた(第9章本文から)。レヴィブリュールの偏見「人間が違う」に戻ってしまった。

レヴィストロースはサルトルのこの偏見を批判します。

ここで;

本著「野生の思考」が伝える事例それらの解析、例えば彼らが実践している「具体科学」の思考、方法論を取り上げれば先住民、未開社会は、近代西欧社会に劣っていない。その論拠を提示しています。部族民通信は動画とPDFで「野生思考」を解説しています。(動画とPDFサイトwww.tribesmytube.com 野生の思考1~8 20201030日から2116日に投稿、youtubeにも投稿している)。作成したPDFから2葉をここに掲載します。

 

詳細解説は動画PDFに譲りますが、1~8の伝えかけは「思想(モノの主体の具体科学)、世界観(分類法)、哲学(因果の究明)、技術(寄せ集めやりくり)の思考体系」を先住民は奉じている。(16世紀以降に西欧で発達した)近代科学は偶然あるいは奇跡か、モノ主体を抜け出し属性分解にたどり着き、ニュートン、クリックなどの成功を導いた。

新石器革命いらいの「モノ思考」にこだわる先住民社会、これが文明的発展に行き着かなかった理由とレヴィストロースが説きます。

 

9章歴史と弁証法の本文解説に入ります。頁を追って鍵となる幾文かを取り上げます

dans quelle mesure une pensée, qui sait et qui veut etre a la fois anecdotique et geometrique , peut-elle etre encore dialectique? La pensée sauvage est totalisante ; en fait , elle pretend aller beaucoup plus loin dans ce sens que Sartre ne l’accorde pas a la raison dialectique , puisque, par un bout , celle-ci laisse fuir la serialite pure ( dont nous venons de voir comment les systems classificatoires reusissent a l’integrer) et que, par l’autre but, elle exclut le schematisme….> (野生の思考第9292)

一つの思考とは挿話的で地理的限定であるのに、弁証法でもあるとはどのような仕組みだろうか。先住民の思考は統括的である。実際にその思考は統括する方向に進展しており、サルトルはそれをして(彼の)弁証法には規定出来ないほどだ。なぜなら、彼の弁証法は一方の端で連続性を純粋に追いやり、他方の端では(カントの)図式化を拒絶しているのだから。

 

引用文は章題「Histoire et Dialectique」の真下に置かれます。この文をして9章の伝えかけの凝縮となるから理解しなければ進まない。

「一つの思考」を思考が捉える事象と読む。歴史家が歴史思想を形成するために捉えた事象、それは挿話的(偶発)、地域限定でしかない。なぜそれが(連綿と継続する)弁証法(の周回)に組み込まれるのか。回答には皆様すでにご理解かと。本投稿の2回(322日)にて両者の歴史観の違いを説明している。そこでは「発生する事象に対して否定(反作用)が生じ人は行動する(praxis)」弁証法解釈をサルトルが展開するが、レヴィストロースは事象は「挿話地域」でしかないと規定する。その言い分は「一つの事象は弁証法に組み込まれない」となる。

次が難解。Serialiteとあるがフランス語にこの語は存在しない。最も近い語はserial、映画のシリーズ(de serie)を言う造語(英語serialを借用しiteを付けた)。前回の投稿その推測を用いて説明したが大間違いだった。今回は近い語serialisationの派生と見る。この語自体も実はサルトル造語。意味として<perte du sentiment d’appartenance a la collectivite humaine, surgissement d’anomi conduisant d’un membre a vivre chacun pour soi dans l’hostelite envers les autres>(辞書Robert)人間集団に属するとの心支えを失い、規則なしにそれぞれが自分のためだけに生き、他者への憎しみだけを抱く。ナチス収容所では個性(名前)を剥奪し番号化する状態が例。<…ite>に派生するとその状態である事となる。

すなわち「事象の個性を剥奪する状態」を純粋(pure)なまでに、原理的に徹底的に、追いやっている。このpureの含意は純粋無垢ではなく、「行き着くところまで進んでしまった」と否定的である(慣用句pure et dureは志向の極端さを表すが、それに近い用語法とみた)。

故にSerialite pure極端なまでの連続性となり、連続性は換喩です。

何を喩しているかは本文内部で分かるが、冒頭のここで推理する。弁証法では事象の連なりに否定、統合が下される。個別性を剥奪しそれら事象を弁証法の流れの中にserialitiser(連続化)して、serialite(個の喪失)におとしめた。サルトル弁証法での事象の疎外を伝えている。

歴史学では発生した挿話事実、地理の限定など「事象の個性」を吟味する。連続性を機械的、原理的に解釈する(serialite pureこれが唯物弁証法)であってはならないとの主張です。

「図式化」はカント用語、そう取れば理解に容易い。解説を次回にまわす。

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判4 了(2021326日)

 

本書での主張、3の原点を終えるにあたっての追記(前回の追記の続として):

歴史弁証法には特異点があってそれが共産社会である。政治経済の作用反作用活動を経て究極点に向かう世界である。その流れに人が積極参加しなければならない。Praxis(参加)なる活動行為をこの動きに当てはめている。この思想はマルクスを超え政治教条と変身し(マルクスが地に降ろした弁証法神様を天上に戻した)、共産革命を可能たらしめた。レーニン毛沢東主義の極左弁証論、すなわち暴力革命の思想背景です。レーニン毛沢東の行動哲学はマルクス歴史弁証法とは別モノとする分類もある。

サルトルは「la critique de la raison dialectique」を刊行(1960年)、その前後をたどれば、共産主義を平和勢力だとして賛美する文章(le communiste et la paix)を発表し、かつ中国、キューバ、ソ連(いずれの国も暴力革命で独裁を樹立)を訪問している(19556062)。サルトルが(62年の)モスクワ軍縮平和大会に出席した事実はなぜか、Wikipediaなどネットで見えない。サルトルも極左弁証法を信奉していた事実、その歴史を隠蔽したい勢力があるのだろうか。

 

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判5 (2021329日)

前回引用の最終部<….elle exclut le schematisme….> (野生の思考第9292)。(サルトルの)歴史弁証法は 他方の端では(カントの)図式化を拒絶している。この解釈に入る。

図式化(schematisme)とは何か。

人が外界を理解するにあたり、対象とする事象と、自己がそれを表象する理念(entendement)を結ぶ繋ぐ概略である。図式schemeschema)なる語を調べると<chez Kant, schemerepresentation qui est l’intermediaire entre les phenomenes percus par le sens et les categories de l’endendement. 思弁が組み分ける範疇と感知した事象の間を取り持つ表象(LeRobert)

もう一文<Figure simplifiee representant les elements et articulations essentiels d’un objet, d’un mechanisme, d’un raisonnement, qui peut intervenir soit pour exprimer brievement des connaissances dejas acquises, soit  pour faciliter des inventions (Dictionnaire de philo, Nathan)対象物、運動、ないしは理由付などの主要な構成や分節要素を表現する単純化した表現。それはすでに獲得している知識の要約を説明できるし、創意工夫を表現するに役立つ。

上の2の解説から図式化を探ると 1単純化した表現形式(図でもあり文章でもあり、頭に描く概念でもあり得る) 2思弁として考えついた内容(あるいは解き明かした対象物の本質)とその対象物の実際とを仲介として表現する図ーとなる。

部族民として図式化の例を挙げる:

ブラジル調査旅行でレヴィストロースはボロロ族の村落構造を調べた。悲しき熱帯、「構造人類学AnthropologieStructurale出版1958年」で説明されるが、その構造は2部、8支族、それぞれ支族に3の階層を抱する社会であった。この複雑さが彼らの社会、すなわち婚姻制度、儀礼、信仰などを規定する。村落体が社会そのものであるが、その実際図面と彼らの描く理想村落とを対比させている(二の図を参照)。この理想図は彼らが頭に持つ社会の表象を示すschemeである。

実態の観察から表象(思想)を組み立て(ここまでが分析理性)、その思想を表現する手段に図(scheme)を作った(ここにentendement constituant=弁証法理性が介在する)。

サルトルはこの思弁の過程を経ていない、レヴィストロースが非難する。

思考工程の差であるけれど、なぜことさら荒立てるのか。否、荒立てているわけではない。レヴィストロースは西洋哲学の根底に立ち戻っているのだ。知とは本質とは、その根底で両者に食い違いがある。故に語気が幾分かあらくなった。

図式への流れは知が「宇宙を見つめる、そこにある本質を知が探る」とレヴィストロースが語る。発見した本質を概略し表象するとなります。これがデカルト以来、西洋哲学の本流です。カントもヘーゲルも人の知が宇宙真理を解き明かすと語る。レヴィストロースにしてその流れの本流に乗っています。すなわち知が図式を経て本質をたぐる一この過程が分析理性と弁証法理性を総動員する人の智の活動そのものです。

サルトルは「存在が知を持つ、それを知るのが(人の)自由」実存主義を標榜した。この宇宙と人の知の(カントびっくり大逆転の)仕組みが、唯物史観と相性が良いのか、歴史解釈においてマルクスが「地上に降ろした神」を奉り上げ、弁証法が知、それを知るのが人の宿命(人の知は弁証法の反映でしかない=マルクス)と言い換えた。故にこの一文で本章(歴史と弁証法)の究極点である「人が考えるのか、弁証法が考えるのか」の基盤に降り立ち、サルトル批判をしたとの解釈が、原点1,2とも合わせ、たどり着ける。

次の文;

 Quand on lit la Critique, on se defend mal du sentiment que l’auteur hesite entre deux conceptions de la raison dialectique. Tanto il oppose raison analytique et la raison dialectique comme l’erreur et la verité, sinon meme comme le diable et le bon Dieu ; tantot les deux raisons apparaissent complementaires : voies differentes conduisant aux memes verites.>292頁)サルトル著「批判...」を読むたびに本書作者は弁証法について2の概念を行ったり来たりして戸惑っていると判断せざるを得ない。時に分析理性を弁証法理性と比べ邪と正、悪魔と神になぞらえ比較するが、一方で両者は補完的であり、道程は異なるが同じ真実を目指している。

2の弁証法にさ迷うサルトル、この躊躇こそ(本文の原点1,2が示す)サルトルの使い分けです。1は理性論、2では世界観。理性論では分析手法であるヘーゲル弁証法(思弁的弁証法)を受け、世界観(歴史)ではマルクスを借り受けた。その絡繰りをすっかりレヴィストロースに読み取られた。

ところで皆様には、「自身の理性で考えるけれど、一方で歴史は唯物で動く。この二重性を受け入れても」よろしいではないかと反論するムキがあるかもしれない。蕃神(ハカミ)もそうした猶予に傾いていた。そして;

西欧哲学において真理は一つ。畢竟それは誰が考え何を暴くかに尽きる。繰り返すがマルクスの歴史観で「考える」主体は弁証法。弁証法は地上に降りた神であるから。ヘーゲル弁証法では人が持つ思弁が考える、歴史は思弁の反映。ヘーゲルはこの事例を「フランス革命は人の思弁の現実化」と力説した。

Wikiなどネットでの解説では「弁証法を信奉しながら分析理性で説明する」矛盾と説明するが、より深いい根の部分、宇宙が考えている歴史を思弁の解釈で説明する矛盾、にレヴィストロースからの批判が発生していたと理解すべきです。

もう一文;

Sartre attribute la raison dialectique une realite sui generis: elle existe independammment de la raison analytique , soit comme son antagoniste, soit comme sa complementaire. (293)サルトルは弁証法理性にあるがまま(sui generis原義はその種に特有の)の現実性を与えている、分析的理性と独立しているとの意味合いである。時に反対に位置しあるいは補完でもある。

この文に引き続いて弁証法理性のこの立ち位置がマルクスに由来すると決め、しかしマルクス思想はサルトルに比べ相対的<l’opposition entre deux raisons est relative>としている。

このクダリを読むとサルトルの抱える2面性(弁証法と分析理性)を、ごく端的にマルクス弁証法の「拡張解釈のため」とレヴィストロースが説明していると読める。すると部族民の「マルクス+実存主義」にヘーゲルを持ち込み重ねるとは「解釈し過ぎ」となりそうだ。しかし1を読んで10をこねくり回す悪癖を常とする部族民であるから「読み過ぎ」のそのままにして解釈を続ける。

Pour nous la raison dialectique est toujours constituante : c’est la passerelle sans cesse prolongee et amelioree que la raison analytique lance au-dessus d’un gouffre dont elle n’apercoit pas l’autre bord tout en sachant qu’il existe, et dut-il constamment s’eloigner 

()我々にとって弁証法理性とは常に「基盤」となる理性である。思弁に潜む底なしの陥穽、分析理性は向かい側に何かがあると知るけれど、見えてこない。その上だんだん遠ざかっている。その端渡し役割を担う弁証法理性。それにして間断なく拡大し改善されているのだ。

2の理性の補完性を換喩に託して説明している。

Constituant(動詞constituer)は他動詞「形成する」が一般であるが、自動詞etre l’element essentiel基本要素であるとの用い方がある。ここでは自動詞のの意味を持つ分詞法participeとする。分析理性の前に「陥穽」が広がる。陥穽とはなにか、分析理性の限界点です。カントは「図式」を理性と現実(本質)の介在に置くが、そのときの思弁が弁証法理性です。

しかしこの説明には、書き出しッペの部族民にしても、「煙に巻かれる」感が残る。分かったような気になろう。換喩なのですから。

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判5 了(2021329日)

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判3 了

追記:前回(326日投稿)での追記で「歴史弁証法には特異点があってそれが共産社会である」とした。ここでの留意は共産を信奉する権力は遠い未来「特異点」を判断の拠りどころとする習癖を持ちます。すなわち現在を(いまだたどり着かない)未来の視点で判断する。彼ら共産国家の断定とは 1現時点の歴史上の位置(特異点との時間距離)を常に確かめている 2特異点との比定で社会、個人の価値を判断する(資本主義的思考は排撃される) 3特異点達成に向かっているのか反逆しているのかで思想、信条の是非を決めつける。弾劾する(シベリアとかオルドスに送る)

ちなみに上の1はマルクスの主張です。2,3についてはマルクスから発展したレーニン毛沢東主義の教条となります。歴史特異点を根本基準(デファクトスタンダード)に崇め個人を判定しているのであるから、この基準から一歩はみ出したら命がない。ソ連、現中国での人民弾圧での実例は限りなく数えられる。未来を基準にして現在を断ずる過ちです。

 

Blog投稿時の日付とノンブルが付されています。


 
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