自宅でくつろぐサルトル、Cogitoの俘囚と信じられない余裕の表情を浮かべている(ネットから)




サルトル批判の原点に3の趣旨を上げたが論点は色々と述べてもかならず、1の理性論に復帰します。
故に9章の全意味とは「個人が理性を得る」実存主義をカント主義のレヴィストロースが批判すると覚えたい。
(蕃神)
 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2021年4月30日
主宰蕃神(ハカミ)義男        部族民通信  ホームページに  
歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判  
   全5回(3月19日からGooBlogに10回投稿した同名のブログ稿をHP5回に書き直した)
 歴史と弁証法 サルトル批判 1 (原点を見失うな)  
同2(弁証法は思弁かモノか)   3(思想とは時間地理限定)   
4(Cogitoの俘囚)   
 5(未開人と理工科学院教授) (クリックで跳ぶ) 
 本投稿の要旨を5葉のPDF化しています

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本稿は2021319日からGooBlogに投稿した歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判の本サイト転載版です。Blog投稿時の日付とノンブルが付されています。

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判6202142日)

 Dans notre perspective , le moi ne s’oppse pas plus a l’autre, que l’homme ne s’oppose au monde : les verites apprises a travers l’homme sont ((du monde )), et elles sont importantes de ce fait !On comprend donc que nous trouvions dans l’ethnologie le principe de toute recherche, alors que pour Sartre elle souleve un probleme…(295)

人が世界に対立するまでもなく「私」は他者と対立していない、それが我々(人類学者)の見方である。別の言い方では人を通して獲得された真実は世界であり、それら真実が重要なのはその事を持ってするのである。故に民族学の中にすべての研究の原理を見つけられるとしても、人々の同意を得る事が出来るであろう。しかしサルトルには民族学こそが問題である….

引用文はhomme人をして全人類に当てはめる。研究対象は多くが「先住民」ではあるも、民族学者は彼らを「未開人」、文明人とは別種の劣った人種、を研究対象にしていると思うことはない。先住民を通して得た真実、しきたり、社会機構、制度などが「世界」の究明に役立つと信じている。この世界も全人類共通の世界です。

これが人と他者、世界の関連であるが、その事実をサルトルは認めない。人類学を認めないサルトルの問題とは;

En effet, peut-on faire des peoples ((sans histoires)), quand on a definit l’homme par la dialectique et la dialectique par l’histoire?296頁)

(サルトルの進め方は)人を弁証法で定義づけ、弁証法は歴史の中で動くと決めつけている。この場合、歴史を持たない人間をどのように規定できるのか。

文は反語になっていてサルトルには歴史のない民族は劣る人類、すなわち文明人とは別種と規定するしかない。この文にある弁証法は人の理性を形成する世界観の弁証法(原点の2)です。マルクスの唯物史観。歴史を持たなければ人は理性を持てないとつながるから、歴史のない社会の民族は劣等….の結論に導かれる。

Satre semble (ayant) tente de distinguer deux dialectiques : la ((vraie)) qui serait celle des societes historiques, et une dialectique repetitive et a court terme, qu’il concede aux societes dites primitives tout en la mettant tres pres de la biologie ;

サルトルは弁証法を2の種に分類しているようだ。1は真の弁証法で歴史を持つ社会に当て、短周期で(同じ様態を)繰り返す一種の弁証法を、いわゆる未開社会、文明とはほど遠い生物学的世界に当てはめている。=文中の(ayant)は訳者が追加した。分詞法の過去となりayant(avoir)を付加しても、しなくても良しとされる。仏翰林院会員レヴィストロースがつけていないから、ayantは無いが正しいかもしれぬ。原文では見えないがtenteにアクサンが載せられるから過去と分かる=

ここで初めの引用文<Dans notre perspective,,,>の重みが理解できる。民族学者(レヴィストロース自身)は人と世界(歴史のあり方)を一元で解釈し、サルトルは文明と未開に分けた。分けた理由は弁証法歴史を経験していないから、頭の中が(我々と異なり)弁証法化(文明化)していないとの独断である。

il expose ainsi tout son systeme, =中略=le pont demoli avec tant d’acharnement entre l’homme et la nature se trouverait subreptiment retabli.>(296)

訳を試みる前に;

Acharnementとは執拗な攻撃。人と自然の間にそれが起こって、橋が壊された。これらの用語は換喩(metonymie)です。複雑事象を一語で言い換える使われ方となります。それら喩えが何を換えているのか「見当」付けから始めないと先に進まない。=中略=の部分を抄訳すると「民族誌学、それは真摯に人と社会を究明する学であるが、その成果を斜めに(par le biais)読み取って」が入る。するとこれら換喩は民族誌、さらに前文にある弁証法的社会と短周期社会とも関連があると(ヤマカン)で推察する。

弁証法を持つ文明側をhommeとしてnatureは未開社会としよう。攻撃とは文明と未開の衝突。すると訳は;

この一文がサルトルの中味をすっかりさらけ出した。=中略「民族誌学、それは真摯に人と社会を究明する学であるが、その成果を斜めに(par le biais)読み取って」=人(すなわち文明)と自然(すなわち未開)の間に繰り広げられた攻撃、その結果の崩れ落ちた橋を、こっそり修繕していたのだ。

サルトルが読み込んだ「民族誌」は何か?原文に当たらないから不明である。そうした民族誌も真摯な人類研究なのだがサルトルが曲解したと読む前提がある。そして;

Sartre se resigne a ranger du cote a l’homme une humanite ((rabougrie et difforme)サルトルは人(文明)の脇に一種の((出来損ないのカタワ)) の人社会を置くことを自ら甘受する。

 

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判6了(202142日)

 

 

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判7202145日)

引用を続けます。<non sans insinuer que son etre a l’humanite ne lui appartient pas en propre et qu’il est  fonction de sa prise en charge par l’humanite historique : soit que , dans la situation coloniale , la premiere ait commence a interioriser l’histoire de la seconde….296頁)

訳の前に;動詞insunier(ほのめかす)は原型を保つが主語はサルトル、前文のSartre se risigneを受ける。son etre:その存在、「その」は前文のune humanite ((rabougrie et difforme))を受ける(普通はuneの名詞は次文で受け継ぐ場合にはcelleになるが、son(sa)が引き継ぐ例も時に可能=文法的には苦しいがそうしよう)。luiは前の句の名詞のhomme(文明)、次のilson etre.

訳:出来損ない社会が人間社会に属している事への不合理さに加え、歴史社会(文明)から負荷される役割を取り込む事で(その未開)社会が成立するのだと(サルトルは)あからさまにする。植民地化の過程では前者(歴史社会)は後者(未開社会)の歴史を囲み取り….このあと未開社会は歴史社会から課せられたご加護(benediction)への道程をとらされるが続く。

この後人類学者らしきレヴィストロースの述懐が入る。

(それ=植民地化=によって)信条、信仰、風習の豊かさと多様性が失われた。人はもう忘れているが幾百、幾千もの社会が共存していた。それらは人がこの世界に出現して以来連綿と継続してきたのだ。

en elle (apparition訳者) - fut-elle reduite a une petite bande nomade ou un hameau perdu au coeur des forets – se condensent tout le sens et la dignite dont est susceptible la vie humaine.(297)

その現れの様は移動を続ける小さな集団(バンド)、あるいは森の奥深くに隠れる一つだけの村落にまで縮小されていたかもしれない。そこには生きる指針(sens)、そして人間として重要な尊厳(dignite)がすでに具わっていた(ここに至るための安定した精神性がすでに具現されていた、と前文にある)。

que ce soit chez elles ou chez nous , il faut beacoup de naivete pour croire que l’homme est tout entire refugie dans un seul des modes historiques ou geometriques de son etre , alors que la verité de l’homme reside dans le systeme de leurs difference et de leurs communes proprieties.(同)

森の奥深くであろうと我々(西欧)であろうと、人が己の存在を、色々あるはずの歴史的可能性、あるいは地理的候補地の中で、ただ一の選択肢に逃げ込んでいると考えるには、よほどの幼児的信じやすさ(naivete)を持たなければならない。なぜなら人存在の真実とは人類全員が同質性向を持つに加え、(民族、習俗などの)違いを受け入れる体系にあるのだから。

訳注:歴史的可能性を一つにしてしまうとは、「弁証法」の進展のみが人の歴史と決めつける狭量に他ならない。地理的分布にしては、西欧という一地域のみが文明を誇るとする考えを指している。

 

これら引用文の伝え掛けは前回(42日)投稿で引用した句l’homme une humanite ((rabougrie et difforme))及びl’homme et la nature(換喩)とも合わせ、原点2(歴史観)の内容そのものです。後追いですがそれらへの留意は;

歴史(弁証法)で動いている社会は、歴史特異点(共産社会)に日々歳々向かっているとされる。しかし、歴史が支配していない社会でも歴史をもつ。サルトルによればその歴史は短く幾度も繰り返す短い弁証法となる。弁証法の公理は人の理性をも支配するので(マルクス)、文明社会の人々が真実の弁証法理性を獲得しているに比べ、未開社会の原住民のそれは短い弁証法に支配されるので「出来損ない」から抜け出されない。

サルトルの人類学批判(レヴィストロースへの批判)の中身とは「人類学は共時性での事象の比較に徹し歴史公理」を無視しているからであろう(原点La critique de la…を読んでいないから推測)。レヴィストロースからそれに対しての反論は以上のとおり。人類学は「共時の事象を調べ、歴史が事象を経時にまとめ」それらを貫く思想を明らかにするがその基盤となっている。

 

次の節で原点1(理性論)に入る。

原点1の趣旨は「実存主義で展開した理性獲得(=自由になる)をヘーゲル弁証法に移植した」とした。その部分を調べよう。

Qui commence par s’installer dans les pretendues evidences du moi n’en sort plus(297)それが在ると証明されたとする「自我」に安住する者はそこから抜け出せない。

La connaissance des hommes semble parfois plus facile a ceux qui se laissent prendre au piege de l’identite personnelle. Mais ils se ferment ainsi la porte de la connaissance de l’homme : toute recherche ethnographique a son principe dans des ((confessions)) ecrites ou inavouees. En fait Sartre devient captive de son Cogito.()

訳の前に:複数型の人hommesと単数の人としての個性identite personnelleが使い分けられる。複数は「人類」、単数(個性)を個人が理性を獲得する様態(サルトルの言う実存主義)と捉える。Confessionsは換喩、何事かを告知する内容、「訴えかけ」「メッセージ」と理解する。民族誌学であるから調査対象となるは先住民達の「知」の訴えである。これを趣旨と拾いクセジュ文庫式の逐語訳は捨て、意訳に思い切りで挑戦すると:

<人類を語る事とは、人の各自が理性を獲得するという罠に落ち込んだ者には容易いかもしれない。個人性を語って「人性」としているから。しかしその説明では人類を理解出来ない。民族誌学は人々の「訴えかけ」であり、あからさまになっていない場合をあるけれど、それらを文書に編集詩、人々に伝えるという原則を持つ。一方(個性から出発している)サルトルは(人々を語らず、自身の理解を伝えるのみだから)cogitoの俘囚となりはてた。

Cogitoはデカルトの言葉「我考える」。我が宇宙に展開する仕組みをデカルトは持っていると後文で「補正」して、サルトルの我はen sociologisant le Cogito Sartre change de prison. Cogitoを社会化しながら住処の牢獄を換えただけ-辛辣な語を当てている。

 

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判7了(202145日)

 

 

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判8202147日)

前回(45)でレヴィストロースはサルトルとデカルトを比較した。「知」、考えるを人存在の根底に共に置くのだけれど、「個」の知に拘るサルトルは「知の監獄」に入っていると揶揄した。この論調は続く、

Descartes , qui voulait fonder une physique , coupait l’Homme de la Societe. Sartre , qui pretend fonder une anthropologie , coupe sa societe des autres societes. Retranche dans l’individualisme et dans l’empirisme, un Cogito – qui veut etre naif et bru – se perd dans les impasses de la psychologie sociale. Car il est frappant que les situations a partir desquelles Sartre cherche a degager les conditions formelles de la realite sociale : greve ,combat de boxe , match de football…soient toute des incidences secondaires de la vie en societes ; elles ne peuvent donc servir a degager ses fondements.(298)

訳:デカルトは人間を社会から分け、物理学を確立しようとした。サルトルは何をしたか、己の社会(西欧)を他社会から分断し人類学を確立したと言い張るが、それは一種の人類学にすぎない。愚直で荒々しいCogito(知)を個人主義、経験主義に移植すると試みたあげく、社会心理学の袋小路に迷い込んでしまった。なぜなら、彼が社会の真実と数えあげる例とは、驚いてしまうのだが、ストライキ、ボクシング試合、サッカー試合などだがそれらは社会生活の2次活動(incidences secondaires)でしかない。2次故にそれらを集めても生活を形作る根底を引き出す事にはならない。

引用文の意味を考える;デカルトが物理学を探ると:

個が知を持つ、それは社会から与えられた訳でも、社会を考える為の知でもない。物質の中味(本質)は何かを探る知である。これをして「一種の物理学」と性格づけた。

サルトルにしても知は個が獲得するとする。レヴィストロースの表現では過程は存在を知る事であり、内実は個人主義、経験主義である。実存主義が知を獲得する手段を、かく表現した。

この喩えは言い得て妙、確かに理解できる処であります。皆様にあっても同様かと思います。

実存の「知」が社会心理の行き止まりに彷徨った。実存主義の理念を生かしつつ弁証法を説明する試み、しかし「己が納まる穴を見つけられないボタン」、そんな焦りがここに見える、とレヴィストロースが指摘している。

ストライキなどはそうした状況に置かれた市民が、弁証法の公理(人の理性を支配する)に動じさせられ「反主題、アンチテーゼ」を感じ取り(ここに社会心理学が働く)、praxis(革命行動)を起こすとのサルトル説明です。

原点の1でヘーゲルの智弁的弁証法に実存主義での「個の知恵」を植え付け、原点2ではマルクス弁証法の唯物性取り込む二重の絡繰りをレヴィストロースが見破って、上引用の一文「知恵が社会心理学の袋小路」となったと解釈します。

それら示威行動は生活においては2次行動で、その底に真の起因につながる1次行動があるとレヴィストロースは考えます。それが「思想」であるとは彼の分析進め方に接すれば想定できる。実際行動、praxisに始まるマルクス弁証法の公式は袋小路に消えた。

 

サルトル批判は続く、

Pour l’ethnoloque , cette axiomatique si eloignee de la siennne est d’autant plus decevante qu’il se sent tres pres de Sartre, chaque fois que celui-ci s’applique, avec un art incomparable, a saisir dans son mouvement dialectique une experience sociale actuelle ou ancienne , mais interieure a notre culture>()

一民族学者(レヴィストロースのこと)はこの公式化は自身が温める説とは大違いで、がっかりしてしまう。サルトルの著作に接すると、彼は表現力を駆使し社会体験、それは今の世の事でもあるし昔の記録もある、それらを持ち前の手練れで弁証法に取り込んでしまう。しかし常にそれら体験は我々(西欧)内側の物でしかない。

続いて民族学の取り組み方をレヴィストロースがさらりと述べる。

先住民が住む場所に身を置く社会の観察とは、彼らの意図(intention)と原則(principe)を彼ら生活の律動(rythme)の中で見て取るこの一節の語り口は軽いけれど中味が重い。意図、原則、律動こそ生活の一次行動と規定して、前文のストライキなど2次と対比している。ストライキボクシングなどで発生するアンチテーゼ活動(革命活動)はあくまで2次である。一方、1次には律動がこもるから突発行動ではない。1次と2の差は律動の深みに身を置くか突発か、前向きではない文句の「naif et bru」が突発性を表現しているが、この暗喩が効いている。

次の文にtotalisation統括が出る。

l’exigence de totalisation soit une grande nouveaute>(幾人かの歴史家、社会学徒、心理学者には)統括化の考え方は新鮮に映っているはずだ。

Totalisationがでてきたがこの出現は文脈においては唐突ではない。意味を探るに前文の<apercevoir une epoque ou une culture comme un ensemble signifiant.>と同期させて理解する。引用しないが以下の文が続く;(民族学者の全員が)文化とは「自身の基盤、時間的位置と自立の意味を知る集合体」として捉える。こうした集合体を解析する民族学の理論をtotalisationとする。それは「全ての民族学」で実践されていたとする。

pour les ethnologues , elle va de soi, depuit Malinowski qui la leur enseignee><民族学者は全員がその意味合いに気づいていた。マリノフスキーの学説が他学問分野に影響を与えていた頃から>統括化の概念を民族学はすでに取り入れていたのだ。

Blog投稿時の日付とノンブルが付されています。

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判8了(202147日)


歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判4了
 
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