部族民通信ホームページ 開設元年6月10日 投稿2020年6月30日 |
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「Les Structures Elementaires de la Parente親族の基本構造」1 前文 | |||||||||
2021年1月8日~14日に親族の基本構造の紹介1としてGooblogに投稿した文を加筆修正し、ホームサイトに投稿する(2021年1月31日) 目次 第一部Nature et Culture 自然と文化 自然から文化 いかにして人が社会、文化を形成したか 近親婚禁止が文化の始まり 交換の公理 等価交換VS不等価交換 |
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部族民通信としてこれまで取り上げていない「Les Structures Elementaires de la Parente親族の基本構造」(レヴィストロース著、初版1947年、第2版1963年)の解説を試みる。本書(小筆手元にあるは第2版=最終版、初版を増補して570頁)は大作である。頁を進めるにつれ、「親族」の解説に加えて諸先住民の習慣、制度も多く紹介される。民族学の著作ゆえ、それら族名に馴染みなく居住域に知識も持たないからこうした族民の挿話を無理には追わず、本紹介では「構造の基本」概念の説明部分に焦点を絞る。
よって紹介は 以下章題のみ記述。 近親婚の問題 交換の基礎限定交換 規則の世界 族内婚と族外婚 互酬性の原理 二重構造 古代という幻想 同盟と系統 イトコ婚について(これが第9章)。 その後にある一部族の記述に入るが、この制度が大変興味深いのでこれは紹介したい。婚姻と世代再生産の仕掛けを精緻に制度化しているMurngin族(アボリジン、北部オーストラリア先住民)での女と子の分配制度(第12章、章題はMurnginのシステム)。 合わせておおよそ全頁の半分ほどとなります。残り半分は世界先住民の民族誌に詳しい方の領域と勝手に解釈して読み流したが解説するまでの理解に至らない。 著作の経緯; 初版の出版は1947年、レヴィストロースは1940から45年まで米国に亡命していた。この間、英語圏の民族誌資料に接し、米国の民族学者とも交流を持った。ニューヨークで構造言語学の旗手ヤコブソンと邂逅し、構造主義の影響を受けたと巷間に伝わる。終戦と共に帰国、かねてから温めていた主題「文化の発生」を社会と制度の発達との切り口から本書をまとめた。 本書で開陳する分析には「構造主義」の手法が伏水として流れる。構造人類学の嚆矢である。 親族構造の自然状態を「小バンド」一家族のバンドと想定する。この小バンドのなかですでに「近親婚の禁止prohibition de l’inceste」の規則が形成されていたとも想定している。あらゆる民族、部族はかつての昔この「小バンド」の環境の下で発展した。近親婚の禁止は今も、あらゆる社会に規則(regle)として残る理由は「原初社会」ですでにそれを規定し制度化したからである。拡散、分岐した今もすべての人類、社会が共通の規則、倫理として「近親婚の禁止」(以下近親婚…)を保ち続けている。本書の主張です。 新石器革命で集合体が拡大する過程(文化の発達)にて、それぞれの社会が独自に制度「近親=婚姻できない範疇」を決めていったとしている。 あらゆる社会は「近親婚…」しているが、禁止の範囲は「社会ごとに異なる」謎が解ける。 本書は「結論ありき」。 レヴィストロースが自身の人類哲学を語る、これが本書の目的です。 社会科学書の一般は現象を見つけて、それを人に分からせんと(平易な)語句で説明する。レヴィストロースにあっては己が組み立てる理論が前段に揃っていて、その理論を証明するために社会事象を取り上げる。これらの引用は当然ながら、己理論を後陣から説明する役を担う。一般の学書とは反対の論理展開を試みている。 まず先に自説を出し事象を引き出す。読みつつ交差も曲がりもない一本道の論理、そんな印象が湧き出るが、彼の人類学の着地点が「自然と文化の相克」にあると信じれば気にならない。 説明が抽象に偏ったから、読者には分かりにくいと思われる。そこで; 親族構造とはつまるところ「系統(filiation)+同盟(alliance)」である。 系統の最小単位は家族であり、拡大して族外婚(exogamie)バンド(数家族)、そして族の集団として位置づけられる。自己内で世代再生産を行わない集団である。まず「系統なる範囲」を定め、その教条として近親婚禁止を制度化する。この課程が「文化の発生」と主張する。 同じく族外婚の他家族と同盟を組み、両の家族が娘を交換し合い、2の系統はendogamie族内婚集団をなす。これが「系統(filiation)+同盟(alliance)」確立で、原初の「親族の基本構造」となる。この形態では大きな同盟関係は組めない。小筆はこれをして家族と同盟家族の単構造、「旧石器時代」にはかくありしかを伺わせる(本書はそこまでは語らないが)。 族外婚集団がより大きなバンド(数家族の集合)に発展し、同じく他の族外婚バンドと女の交換を通して、族内と族外の婚姻の制度を明確にして(=親族範囲の発展)関係を強固にする。バンドが邑落単位にさらに族民社会に…. この仮説の実証は難しい。 拠り所として彼は「もし私が家族と族内婚を実施していたら」すなわち「娘あるいは姉妹と近親婚」を実施していたら、他の集団と女交換の輪に入れない。俗な言い方で誰もセコハン娘を嫁にしない。世代再生産を家族バンド内で試みる-そうしたバンドがかつてあったとしたら、その家族filiationは女も含める財貨の交換サイクルに入れず孤立し、とっくに絶滅していた筈だ。逆説から説明しています。 系統filiaionと同盟allienceの峻別は親族構造の原初であり、人類が生き延びる装置(文化)としての原点でもある。もっともな演繹、結論であります。 Ta propre mere, ta propre soeur, tes propres porcs…..tu ne peux les manger>実の母、実の姉妹、所有する豚をおまえは食ってはならない。Arapesh族の言い伝え、第2部の巻頭頁にM.Meadの採取として引用されている(右コラム)。 バンドが拡大する、邑落となる。親族構造の制度化を導きます。制度の複雑化は即、社会規則の厳格化、巧緻化に帰結する。この発展過程をレヴィストロースは考証するものではありません。民族学は「共時の社会研究」であるとして「経時の社会研究」である歴史と区別し、その方法論を執ることはなかった。 家族単位から族民全体への制度、構造への発展は思索です。これをして(部族民蕃神)は哲学とします。それを受け入れるか、実証という観点から賛同できないとするか…読者の選択です。実証主義の根強い英米系人類学徒はこの演繹手法を読み取り、実際と異なるなど批判を浴びせていた。 結論ありきの論理展開はレヴィストロース他の作品にも認められる、野生の思考にはとくに顕著。 主題について 「親族の基本構造」はいかにして人が社会、文化を形成したかを書き綴ります。文化の範囲として用いられる用語はsocial、regle ,ordre、inceste、filiation-allience、echange,(社会、規則、制度、近親婚(の禁止)、系統と同盟、交換)など。文化が形成されるとはこれら語にまたわる概念を人が獲得し、制度として実現し運用展開を図る課程としています。文化への長い道のり、その第一歩が近親婚の禁止=prohibition de l’incesteである; 1 規則(regle)と制度(ordre)、第一歩が「近親婚の禁止」 2 女の交換を婚姻制度とからめ、部族社会(文化)を維持してきた 交換する女を確保するには、家族(系統filiation)内で女を消費してはならない。ここに「規則が生まれ、制度としての「近親婚…」につながり、社会が構造体となって安定する。この過程が文化に向かう歩みであり、あらゆる人類に必須の過程である。 人間社会の礎となる「近親婚の禁止prohibition de l’nceste」とは一体、何か。prohibition、その訳語に「禁止」を取る。 Incesteインセストは日本語で近親(相)姦です。密通、隠しとおす姦淫、こんな語感がありなにやら嫌われ忌避される。「禁忌タブー」なる語がより近そうだ。すると訳は「近親相姦の禁忌」が正しいかも知れない。邦訳本(青弓社)もincesteを近親相姦としprohibitionを「禁忌」としている。日本語に醸し出される語感に準じた訳である。 しかし「禁忌」を訳語にとると著者の問いかけ(メッセージ)から離れる。その語の個人行動の倫理からの否定、そうした語感がつきまとう。すると解釈が進まない。 小筆はprohibition de ….に「近親婚の禁止」を訳に当てる。姦ではなく婚、禁忌ではなく禁止。それを規則、制度など社会(文化)範疇に近づけるためです。 そを精神分析者はオイデプスコンプレックスと類型し、情念世界を学として研究課題に取り上げた。しかし人類学者レヴィストロースは人情など取り上げない。「近親と姦淫を犯す人はいるし隠される。実例は多いだろう」<Car l’inceste , bien que prohibe par la lois et les moeurs, existes ; il est meme beauucoup plus frequen….(20頁) との表現が本書に見えるが、それ以上の追求はない。 心情、情念を彼は語らないのだ。尽くす論はしきたり、決まり事、制度、規則に限られる。規則からはみ出し、制度の枠にもはまらない情の事情などは「自然から文化」という大通りの脇に転がる小石であると無視している。(本人に聞いたことがないけど)。 incesteを近親「姦」とせずに近親「婚」と訳す理由は、それを制度として禁止するからである。私通密通の隠れ近親姦淫をウンヌンするは社会科学の主題ではない。 姦を婚にした。この解釈に根拠は見いだされるか。困った時の辞書頼み。GrandRobertにincesteを当たる; relations sexuelles entre un homme et une femme parents ou allies a un degre qui entraine la prohibition du marriage.婚姻が許されない親族あるいは姻戚の男女の(幾たびか繰り返す)性的関係―とある。小筆はmariageに付く “prohibition”に注目する。mariageは制度である、するとprohibitionは制度上の禁止を意味する。この語に「禁止」を当てても見当違いではない。同じくrobert…. 用例にprohibition de l’inceste が載せられている。その意味は「regle fondamentale gouvernant l’echange des femmes」女の交換の基本的規則とあった。これってまさにレヴィストロースの学説を引用しているのじゃ(彼の名の引用はない)。prohibition…は規則の禁止であり、regleは社会の決まり事だとしている。 勝手決めつけの感があった「prohibition de l’incesteを近親婚の禁止」は、正訳であり本書理解への直通バイパスだった。 本投稿とprohibition de l’incesteを「近親相姦の禁忌」とする訳本(青弓社)との差異は、文言の異なりに終わらない。incesteを近親「婚」、prohibitionを禁忌でなく「禁止」と訳さないと本書は理解できない。
家族内で通婚していてはどの家族も孤立する。その禁止を持って家族が成り立ち、女を交換する単位が設定される。社会の始まりです。後に、より大きな単位、バンド、村落、族社会に規則、制度が発展する。 では如何にしてそれを禁止するか、どこまで禁止かどこからは許されるのか。 先住民たちは親族(parente)定義をfiliation(系統)とallience(婚姻同盟)に分けた。 Filiationは同じ系統、集団、族統に属する人々である。男系を系統原理とすれば「私ego」の母は父とは別の系統filiationから嫁にきて(allience)、生まれた私と兄弟姉妹は父の系統に入る。これに「兄弟姉妹」の語を当てる。 兄弟と姉妹は婚姻できない。この決まりが父兄弟の子にも適用され、平行イトコ(父兄弟の子、または母の姉妹の子)同士の通婚禁止が多くの先住民社会で確立している。
一方、母は別のfiliationから父に嫁にきた。母の兄弟はその別filiationに属し、その子らをして私egoの交差イトコとする。多くの先住民で交差イトコには「兄弟姉妹」以外の語を用いる。その女子と婚姻は可能。父が母を嫁に迎えたと同じく、母の系統に属する子女と私egoは結婚できるし、推奨あるいは義務づけされる。 交差イトコのもう一系統、父の姉妹の娘と通婚できるか。 男系系統を前提として、父の姉妹の子女らの処分権(どこに降嫁させるか)は彼女らの父に属し、彼は規定に則り特定の系統に娘を渡す。その系統は私egoのそれではない。交差イトコを婚姻相手に選ぶ際に「母方女系」か「父方男系」かの分別は重要で、いずれかを選択すればもう一方はかならず忌避される。 理由は、 もし私egoが勝手な好みで、規則に反して母方交差イトコを避け父方交差イトコを嫁にしたら、これがallience規定(限定交換)違反。私は満足しても、嫁側のfiliationは交換の目玉にした女を与えられず、それ当てにしていたfiliationの男はワリを食う、嫁を得られない。だから彼は私の属するfiliationの頭越しで、私が貰うはずだった娘を嫁にする。すると私のfiliationは部族の婚姻サイクルから孤立する。 (シミレーション図PDFを作成した) 禁止制度をまとめる、 婚姻できない女の範疇を決める(filiationの設定) できる女の範疇を決める(allienceの特定) ここで一話の謎々。 <il (mariage結婚の規則)estとは toujours(いつでも、これが1)、partout(どこでも2) et par definition(規定による、3)50頁。ボードビルでは本人、婚約者、間男の三角関係となりますが。三角はレヴィストロースの洒脱(修辞)です。(なお、邦訳本では「真面目に」族民の間男探しを展開している。訳者の真面目性格からかと思う) 婚姻規則のみでは社会は回らない。レヴィストロースは「女も含めた財」を循環させる交換が社会を活性化する原理であるとしている。 そして交換は必ず; 1 不等価、不均衡である。取引(transaction)と異なる点は財の移動に伴う価値の移行が不均等であるにつきる。貨幣経済は取引に絶対値を介在させる。財には値段が付加されるから、仮想であるにしても取引は対等である(財と価額)。これを市場経済とすると、先住民の経済は財を不等価、不均衡をもってする交換であって、この当事者の経済的不足をもってして、社会の循環をはかる仕組みでもある(受け取る以上に与える、与える以上に受け取る=本文から=とレヴィストロースは規定する) 2
交換は共時行動である。共時には不均衡が生じ、それを経時に補償する。共時での等価交換は見受けられる。それは等価不等価に目的を置くのではない、価額については無関心の財を交換する仕組みである。 女交換での不均等; 先住民の過程は己が嫁に差し出せる女(娘、姉妹)を保持していて、相手側に嫁を求める男がいる場合に女を相手に贈与する。相手男は婿の賦役(prestation)を負うことが多いから家畜、食材などを受け取る例は多い。しかし女は家畜とは等価ではない。女を与える不均衡は与えた娘が後に生んだ女子を息子の嫁に貰う。すると今度は、相手側には娘を与えた不等価が生じる。この繰り返しで族民社会が廻る。 実際はこうした2極のみでの女のやりとりは例が少ない(らしい)。嫁にやった娘の取り返し分は、部族内の支族を順繰りに巡って幾世代か後となる制度が報告される(オーストラリアMurngin族)。己が嫁を他支族に与えなければ、息子は嫁を娶れない制度となっている。共時の不均衡を経時の均衡で補う。 もし、 先住民が市場に出て、年頃の娘、姉妹をお立ち台に登らせて「クネクネ踊らせ」競りにかけ、落札された値段に見合った価額で息子に嫁を買い取る。こうした制度があるとすればそれは、売って買ってそれで終わり。等価のやりとりで後を引かない。これをして世間はtransaction市場取引と呼ぶ。人身売買とも伝えるであろう。 こうした市場を先住民が形成していると聞かない。女を交換財として扱うは家畜、穀物の売り買いと大きく異なる。その交換は相手先が限定される、共時的不均衡を鉄則とする(この形態をレヴィストロースは「限定交換echange restraint」と教える)。 女のやりとりが社会構成の基盤を形成する、これが部族民の世界である。 女交換ではないがもう一例; アラスカ、カナダ北西部先住民の習俗「ポトラッチ」について。 ある部族が近接部族に贈り物を届ける。受け取った部族はその財になにがしかを付加し財価を引き上げ、別の隣部族に贈る(おおよそ倍贈りとなるらしい)。贈り行為を繰り返すうちに財貨に託された不均衡がふくれあがる。そして贈り物一式は破棄される。これ以上は無理(無駄?)と判断した部族が、海に捨てるという果敢を決行する。 この課程を不均衡、均衡の交換原理で解釈すると; 贈る行為には不均等が顕在する。贈る側の優位、受ける側が劣勢に設定される。受け側は価額を倍加して第3の部族に贈り、優位を取り戻す。ポトラッチ一式には優位と劣勢の部族社会循環が念じ込められているのだ。それが海に放擲されることで、参加した部族の優位劣勢の不均衡が財と共に消え去る(この解釈は部族民通信)。 部族間の緊張が解け、つかの間の平安が訪れる。 (ポトラッチ、そしてクラ=ポリネシア諸島での贈与制度=の報告では、これら財貨の交換、環流に「女のやりとり」を絡めた全体的交換の記録を聞かない。レヴィストロースは交換とは「女も財貨も」包括するとしているのだから、その可能性は高いのだが。当時の民族学の傾向は機能主義=マリノフスキーなど。事象を他から分離し、機能抽出。こうした手法を踏襲していたからか) 交換される物品のなかで筆頭として貴重な財が「女」である。荷台満載の食物よりも家畜の幾10頭よりも、女一人がなぜ重要なのか。族民も現代人にも差異なくて、人が生きる課題は畢竟; 1 世代の維持 2
世代の再生産 女を得るとはこの1と2を解決する唯一の手段です。再生産について、当たり前だから説明に時間を煩わす要はない。現世代の維持を取り上げる。南米先住民を実地調査したレヴィストロースが見つけた異形は; 一人の痩せた男。みすぼらしさの窮状ぶりの理由を問うと村民らは「独身だからさ」と笑った。 狩猟採取の経済では狩猟は男、採取と小規模農耕は女が担うと決まっている。男が何らかの事情で狩り技術を体得出来なければ、肉を取れない、女を養う能力を持たない。魅力的と映らない。 狩りに出て村に戻る手順。 獲物なしのボウズでは無言無音で、すごすごともどる。獲物ありでは帰り路の遠方から太鼓をドンコドンコ鳴らす。女は驚喜して火を熾し、入り口越して迎え入れる。女の喜び、意気揚々とした男の様が見て取れる(悲しき熱帯の記述から)。漁師の大漁旗と同じ効能です。 このカッコ良さを誇示できる男でないと嫁を取れない。男困窮の大原因である。 狩りができなければ採取に力を入れ、肉断ち辛抱でタロイモなんかを食いつなげば、男だって糧は凌げると勘違いするのが近代人の狭量である。男は採取、小規模農耕ができないのだ。狩りで得るタンパク質から見放され、嫁が持ち込むはずの日常食すら食むを得ず、痩せてもなおさら蔑まされる。嫁もてないは半人前、それ以下かもしれない。 女狩人は存在しないそもそも男子は兵、狩人として育てられる。採取耕作にあたろうにも技量、道具、土地利用の権利も持たない。それらを知識として蓄え、諸々に権利を所有する母から譲り受けられない。母がそれらを直伝するは娘なのだ。この反対給付として女は狩りに従事できない、してはならない。 (小筆は女狩人が存在しない訳を「アラカルト女狩人」(クリック)にて部族民通信ホームサイトに投稿した=2019年5月18日。グーグルで「女狩人 なぜいない」でも筆頭に出てくる) 「Les Structures Elementaires de la Parente親族の基本構造」1 前文 了 |
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