ジンジャントロプスがいかに石器を加工したかのジンジャンが先験を
徳永氏の名言
「読み書き教える」で「書く苦しさ」に焦点を当てたら

3の感慨の真意が理解できると感じた。蕃神
モーリス・メルロポンティ、彼が唱えた現象論とは有神論の構造主義に他ならない
徳永氏の著作の再掲載です。マタカ~と不満の御仁は本文をご参照してください。
 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2020年1月15日
 
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   書く苦しさ、絶対解は目の前に 1 (読み物) 2020年1月31日投稿

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創作活動とは何か、考えてみた。

徳永恂氏の「書く苦しさ教えるむなしさ」(著書「絢爛たる悲惨」2015年刊の後書きから)に戻る。

ブログと本サイト(前回1月15日投稿の「伝えるむなしさ」クリック)で幾回か取り上げたから「またか」と飽きれかえる訪問者が少なくないやも知れぬ。そこで同書で読みとれるとある逸話から飽き気味への答えを導いてみたい。

氏は講演で幾度かベンヤミンを取り上げていた。さる主催側から「またベンヤですか」あきれ顔を見せつけられた。対して「またかとする御仁はベンヤを尽くしたからだろう。私は彼を尽くしているとは思っていない。学び話す事柄は未だ多く抱える。これからも」氏は答えた。正論である、敵手はグウの音もでなかったろう。

(ベンヤミン。ドイツ哲学者18921940年、ナチス迫害からの逃避行中にピレネー山中に客死。なおアーレント、レヴィストロースなどはマルセイユから旅客船での亡命が叶い、過酷なピレネー越えを免れた。船に乗り込むまでをアラカルトvarianfryにまとめたクリック)

小筆蕃神には上記「苦しさ」を創造活動全般と敷衍して理解したい。

前の投稿(GooBlog で2020年1月7日、本サイト2020年1月15日投稿伝えるむなしさ)で;

頭をひねって考えて、何とかかんとか作品に行きついた。そんなあげくの過程を「創造」とは言わないとした。

作品を「創ろう」と思ったとたん、音楽であれば目の前の五線紙、絵画ならばキャンパスの上、文芸だったら原稿用紙今はパソコンのスクリーン上に、絶対の「解」が既に存在している。芭蕉の場合にはそこに、目の前に、絶対解の句を見つけたのだろう。

この解は聞こえず見えず囁かず、よって創造しようとする人に覚知できる筈がない。耶蘇の信徒であればそれを、神による「必然」あるいは「天啓」と伝えるかも知れない。神は全知全能であるからに、あらゆる活動に関与する芸当など簡単である。しかし神の天啓を探し出すのがヒトなのだ。絶対は必ずあるから、遙か高みの空に隠れる神の答えを探し出さねばならない。

いまだ見えない必然を探し出す作業は苦しい

ならば「創造」を探ろう;

ヒトはズーット前から工程「経験する前に結果をしる知恵を持つ」をモノにしていた。

認識考古学なる分野がある。ネット通販で探せる書物では「心の先史時代」(ミズン著)は、門外漢(小筆)にも分かり易い。ミズンは認識の進化を氷河期以降、新石器革命と結びつけて説明している。

小筆が申す「ズーット前」ははるか以前である。

旧石器の嚆矢は350万年前、今はケニア・オルドヴァイとされる渓谷で製作されていた。製作主はヒトの祖先ジンジャントロプス・ボイセイなる類猿人である。(用語のジンジャンも類猿人にしても現在は用いられない。人の「ご祖先さま..」についても怪しい。製作主は別猿人「ハビリス族」かも知れない。古い用語、知識にはご容赦)  

石斧の製作過程は二十四の選択に分解できる。
各選択はかならず+か-の結果を出す。種石(斧となる石)の先端部を加工石(ジンジャンが探しだした石道具)で振り叩いて一の辺の鋭角を作る。振り下ろしが成功すれば+、おとす箇所あるいは力加減の誤りで鋭角が様にならなかったら-で
NG。これを繰り返し、二十四の過程で全てを+に成功しなければ切り口が鋭い、使い物となる斧をジンジャンは得るに至らない。

これを解説している過去投稿ジンジャンが先験を...クリック(2019年5月15日)
頁からも入れる。クリック

石斧を製作するとした時に、彼の脳は石斧の材質、形状、大きさ重さをその内に描いていた。脳が石斧なるモノの表象、すなわち思想を持っていた。製作する過程は頭が描く石斧の像をなぞりつつ、加工石で種石を叩き、叩き痕の鋭角の様を吟味しつつ、頭が浮かべる表象に近づける。だから作製できた。
さらに選択は+か-の二択としたが、+を得る条件は相当厳しいから2択ながら、成功するとは100分の1ほどの可能性であろう。

器用さ不器用さを補う技術が「経験する前から知恵を持つ」「成功した石器の景色を頭に持つ」これをして彼はヒトに進化していた。

当時の渓谷にはジンジャンを越える運動能力と咀嚼能を持つゴリラとかチンパン(の祖先)が住んでいた。彼らがジンジャンの成功を真似して石斧を作製するとしたら;

種石と加工石は彼らに与えてやろう。種石探しから始めさせるとしたらラチが明かない。なぜなら「種石」なる思想を持たないから、350万年後の今にしても探し続けているに違いない。

種を押さえて加工石を振りかざし、下ろす動作からをゴリかチンパンにまかせる。エイヤッ、一回目にしてうまく当たらない。正しい打撃点を打たなかったから種石の一つが無為となった。別の種石を与える、適当に振り下ろすだけだから、どれかの工程で-を出してしまう。二十四の工程の全てを+で通るには困難の800万回を乗り越えなくてはならぬ。ゴリラ、チンパに800万回の乗り越えは難しいだろう。

今の世、左官が壁を塗る。

すき藁を練り込んだ半仕上げの荒壁が目の前、その表に中層、上肌と泥を塗る作業が残る。左官の頭にはこの土壁の、仕上がりの景色が頭にすり込まれている。色合い風合い、肌の照り具合がいかがに仕舞うかを知っている。塗り泥のひとかたまりを小板にすくいコテに取っては荒壁に当る。その繰り返しの幾百千回を経て、追い求める完全「解」に至れば出来上がり。腕がよい職人と旦那から褒められる。

左官は仕上がりの前に出来上がりの景色を知っている。


ジンジャンの先験力を左官と比べれば、両者にして作業する前に出来上がりを頭にすりつけているから同等と言える。

猿とヒトとの差は作るモノへの思想を持たないか持つか、作る何かへの表象を頭に描くは不能か、それを頭に温めているかに尽きる。ヒトが抱く作る思想を猿(ゴリラ、チンパンを含めて)は持たない。

左官、ジンジャンが関わる作業を工芸としよう。そうした作り上げる「思想」は絵画、音楽、文芸にもある。

ここで工芸と創造に分けてみると;

両の製作の環境にはどのような差異があるだろうか。

工芸は道具を作製する。使われるからすり減る。減ったら買い足しする。以前に使用していたそれと新規道具の使い勝手が異なると、買い手から文句が出る。故に同じモノ、同じ思想の作品を作り続ける。出来上がり品はステレオタイプ、規範品となる。

職人の腕の見せ処とは技術をかける部分の水準の高さとなる。水準とは寸法、なめらかさ華麗さなど表層の仕上がり、立て付け仕組みの狂い無さ堅牢さ、組み合わせる適合の度合いなどで、規格とも伝わる。

仕上がり品に対しての正か不良かの判断を職人は持つし、規範品であるから制作に関わらない者、例えば購入者、使用者も出来上がりの善し悪しを即座に判断できる。

故に職人とは俗世間にすでに存在する製品思想をいずこから、親方や発注主から引き出し(奉公し学ぶか盗むか)、完成度のみを追い求める者と言える。

芸術家とは;

先学がどのように芸術が創造されるかの説明を紹介したい。

メルロポンティ(19081961年フランス)。知覚の現象論の創始。

彼は人の周囲環境に焦点をあてる。

周囲をmonde(宇宙)、champ(野)、milieu(環境)などと呼びそこではchose(物、信号)が交雑するカオス地である(カオスは小筆の解釈、耶蘇教徒なる彼は、神の被創造物をして混乱などと規定せずchamp…で通した)。これら信号は(凡人は)見逃し聞き逃するので単なる雑景雑音にすぎないが、実はそれに成分が含まれる。

神なるこの成分を得る手段とは;

Les choses ne sont pas devant nous de simples objets neutres que nous comtenplions ; chacune d’elles symbolise pour nous une certaine conduite, provoque de notre part des reactions favorables ou defavorables, et c’est pourquoi les gouts d’un homme se lisent dans les objets de s’entourer...(Causeries 閑話SS4 1948)

訳:私たちが眺めやる対象物とは単なる単純な物ではなく、一つ一つがある成分を象徴化している。その成分は受け入れられ、時には受け入れられない。それ故、人の性状は周囲環境に統合されるものだ。

Ma perception n’est pas une somme de donnes visuelles tactiles , je percois d’une maniere indivise avec mon etre total(La nouvelle psychologie, 新しい心理学1945. SNS88)

訳;私の知覚とは見ている、さわっている、聞いているなどの総合ではない。私は、己の存在全体と一体化しているやり方で知覚しているのだ。

 

2の引用を通して周囲の事象には信号が備わり、人はそれを、知覚を超えて全身で受け止め、時には排除している。全身とはヨーロッパ哲学の流れから判断すれば「智」、思考となる。知覚のみならず智で事象の信号を評価し、選択する。これが創造となる思想である。

これをして芸術家が創造する過程とする。

 工芸と芸術の差とは思想を借りてくるか、あらたに創造するのかに集約される。 工芸者はモノを作る。芸術家は思想を創る。

そして、

芸術家が思想を着想し作品に昇華せむとする物のあるべき姿は、神がすでに絶対解として図面を書いていた。

続く

 

 
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