三島由紀夫は
一語の訂正もない完全原稿を持ち込んだとの
神話に接し、彼にお出ましを願った。


三島由紀夫の自筆原稿、ネットから採取。クリックで拡大写真に。
 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2020年2月15日
 
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 書く苦しさ、絶対解は目の前に 3 最終回  (読み物) 2020年2月15日投稿
 
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徳永恂氏「読む楽しさ書く苦しさ教えるむなしさ」を続ける。


3の行動なかで読む、教えるにも創造がまといつくだろうが、それらには色づけの度合いであって、「書く」ほどに創造性は濃くない。
例えば、10年一日のやり方の同じ思想と実行で、教壇に教師立ち「教えた」としても、そのやり方で教育効果が生まれるなら、先生として尊敬される。「職人」の先生がいたっておかしくないし、事実、そんな名物教師は数えられる。

逆に教壇に立つ度に創造的な「新たな思想で」教えたら、教わる方は追随出来ない。創造の思想が逆効果を生んで、生徒は講義を理解不能として、途惑いの憂き目をただ覚える。数学者岡潔氏の授業(広島理科大)はそんな創造に満ちあふれていたのかと推測する。(学生にボイコットされ辞職するはめに)

「書く」がおおよその活動で。もっとも創造が必要とされると感じる。

前の投稿(...目の前に の1,2,3 )で芸術での創造とは「新たな思想」に他ならないとした。では書く行為に、いかなる「新しさ」が求められるのだろうか。

書く者は周囲に生きる。

自然、家族、社会、法律など、形として見える事象に彼は囲まれている。メルローポンティが伝えるところのmilieu(周辺)である。書物、新聞、報道でさらに、周囲状況に2次的に拡大する。かくとこれらを受け入れる。
しかし、周囲とは飛び交う情報の多さの中に混乱の様を見せる。もつれからまる情報が彼に押し寄る。それらが信号として周囲に充満、拡散し混乱chaosの様を顕わにする。彼が彷徨する野とは混乱、情報の嵐風の荒れ野と言える。野の混乱から信号を選び、その成分をより分け、思想に昇華するのが創造する者の義務となる。

混乱の野から信号の採取。そして採取して選択。それを創造とする。

選択に当たって必ず思想を更新しなければならない。以前からの思想を繰り返したらただの書き手の職人となってしまう。

三島由紀夫が代表作「潮騒」の着想を得たのは世界旅行(1951年)でギリシャの自然に魅了され、少年少女の恋愛譚「ダフニスとクロエ」に触発を受けたからとされる。
後に神島を訪れ、筋立てを決めた。
執筆開始から4ヶ月(神島訪問と出版の月日から逆算した)、出版社に持ち込まれた原稿は訂正、加筆、削除など書き直しの一行にも汚れが見つけられない、完全原稿であった。

これをして神の作品のなぞりであるとは疑いもない。(右コラムの写真は潮騒の原稿ではない。しかし、どの作品にあっても無謬原稿が彼から出版社に届けられる。神話かも知れない、小筆は確かめられない)

作家の創造の過程を推察するに着想、構成、細部、執筆の流れは誰にも共通する。

着想は思想の形成であり、潮騒ではダフニス…からそれを得ている。自身の言葉で「貴族や、大政治家や富豪ではない。生活の行為者であつて生れたときから、天使であつて幸運、一種の天寵が彼の身を離れない。愛する女と幸福に結ばれる」(創作ノートから、Wikipedia、一部略)と作品の思想を語っている。

この思想を温め実地に足を運んで、執筆を始めた。書斎での仕事の様などはうかがい知るべくもないが、書き出した途端、原稿用紙の空白に、神が教える完全解を見いだした筈だ。その後はひたすらに、目に浮かび頭によぎる言い回し、文言、文節を用紙に書き連ねるだけである。
この4ヶ月、彼は、神憑りの状態であった(であろう)。

しかるに;
潮騒は思想の新たさが際だっていた。
発表の直後、口うるさい論壇から「現実離れ、牧歌的な恋物語、ハリウッド的な通俗」が感動を呼ばないとの酷評もあった(Wikipediaから)。
禁色では人性の暗さを主題とした。その三島の「新たな思想」の創造に、読む側のウゾウ等がが追随出来なかったとの証である。

何かを書こうとして思いつき程度の主題をネタとして、書き始めても言い回し文言で、凡人はそこいらで躓くから、訂正し加筆して、それでも気に入らず全てを消してまた書き出して。

こんな繰り返しを幾重に重ねても、絶対解には辿り着かない。かく語る蕃神が毎朝それをしている。


筆耕を繰り返せば、さらに手間をかければ何とかかんとか、完全と言えなくとも、そこに迫る仕上がり振りはモノに出来るはず、こう信じている。これが違うのだ。作家が着想を持ったその瞬間に神は、完全な作品を用意しているのだ。その神の完全な解を苦心して、再現しつつなぞらえる。この苦労が創造なのだ。

市井の誰か、例えば小筆みたいな凡才がが三島由起夫に生まれ変わる幸運は絶対にやってこない。この現実の悲しさを見直したら、限界とは神が遮っていたと気づいた次第でした。

読者様には第二の三島に変身する可能はあるかも知れません。了

 
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