Hegelは怖れcrainteを語る。動詞craindreの第一義が(envisager) 立ち向かう(Robertなど)となる。よって憂慮などとの感情の表現ではない。困難事態に対処するときの心構えを表している。日本語にも同じ使い分けが見つかる。靖子嬢に振られる怖れは感情だが、大雨後の洪水の「怖れ」は対処するにも無力な心構えを表す。「この怖れは明確に、認識が時に道具(動き)として時に場として(影)の現象表現を採るのを前提にしている。我々自身(理性)と認識との隔たりを予測している」(Hyppoliteの脚注)。 困難な状況とはヘーベルでは絶対を勝ち取る困難さ、彼を受け継いだキルケゴールでは「神」への怖れとなる。

蕃神










 部族民通信ホームページ   投稿2024é年10月15日  開設元年6月10日
主宰蕃神(ハカミ)義男        部族民通信  ホームページに  哲学のページに  

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 1_2

La Phénoménologie de l’Esprit Hegel   Traduction Jean Hyppolite

 
 

INTRODUCTION 導入の章 2回目
(ブログ投稿時のノンブル、日付)

« Elle (crainte=前文から)présuppose précisément des représentations de la connaissance comme d'un instrument et d’un milieu, elle présuppose aussi une différence entre nous-même et cette connaissance ; surtout, elle présuppose que l’absolu se trouve d’un côté, et elle présuppose que la connaissance se trouvant d’un autre côté, pour soi est séparée de l'absolu, est pourtant quelque chose de réel. En d’autres termes, elle présuppose que la connaissance, laquelle étant en dehors de l'absolu, est certainement aussi en dehors de la vérité, est pourtant encore véridique, admission par laquelle ce qui se nomme crainte de l'erreur se fait plutôt soi-même connaître comme crainte de la vérité » 67頁)

怖れは明確に、認識が時に道具(動き)として時に場として(影)の現象表現を採るのを前提にしている。我々自身(理性)と認識との隔たりを予測している。この怖れでは、絶対は一方の側にとどまり、認識は別の側、覚自pour-soiである故に絶対と離されていると知るし、しかし「それなり」に実質である。別の説明を採ろう。この怖れは、認識とは絶対の外側にあるから、真理の外側であると知る。それでも認識はなおvéridique真実(らしき)である。それをして、誤りの怖れとは真理の怖れと分かる。

部族民:鍵語は « crainte» 怖れ。これは個人の感情「憂慮」ではない。認識に感情が入り込む文脈は考えられない。あり得る間違い、陥穽、リスクと考えたい。動詞devoir (活用でdoit)は「なすべき」ではなく「あり得る」とする。「真実véridique」の正確な意味は「dit vérité真実とされる 、辞書Robertなど」なので本当の真実 vérité とは異なる。

ヒトの精神活動、真理追求に潜むその不能を、精神の仕組から掘り起こしている。活動の根底には理性(science)が控える。しかし理性とて真理ではないからモノの真理にたどり着かない。かく、認識の仕組は不完全を抱える。我々(=理性)はそれに気づいていないから、思い違いが発生するなどとの用心を心得ていない。最終行の「真理の怖れcrainte de la vérité」は読み替えて、真理に「たどり着いたと錯覚する陥穽」となる。

引用文の伝えかけの真理追求に伴う怖れ(陥穽、起こり得る間違い)をまとめる:

1誤りに陥る 2理性はそれに気づかない 3誤りにはまると気付いた理性はすでに誤り 4多くを真理としてしまう 5戸惑いこじつけを休ませてこの前提(怖れ)は真実かを検証しなければ(でもしない) 6認識は道具でもあり現象の舞台でもある(前提) 7理性と認識に乖離 8認識は絶対の外 9現象を検査しても真理にたどり着かない 10真理にたどり着いたと勘違い、これも陥穽

精神神動は「絶対」に届かないを10にまとめたが、次の文がこの10を言い表す « Cette conclusion résulte du fait que l'absolu seul est vrai ou que le vrai seul est absolu » 67頁)結論は 絶対は真理であり、真理は絶対である。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 2 了 (825日)

 

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 3

2 理性と知、現象の野の出会い

2024828日)精神作用の分析が続く。理性scienceが登場するが、これも表現として出場するから現象phénomène« elle n’est pas actualisée dans sa vérité » (内包するはずの)真理に起動されていないとする。現象の理性の不全を以下に語る;

« C’est pourquoi il est indifférent de se représenter que la science est le phénomène parce qu'elle entre en scène à côté d'un autre savoir, ou de nommer cet autre savoir sans vérité son mode de manifestation. Mais la science doit se libérer de cette apparence, et celle le peut seulement en se tournant contre cette apparence même. La science, en effet, ne peut pas rejeter un savoir qui n 'est pas véritable en le considérant seulement comme une vision vulgaire des choses, et en assurant qu’elle-même est une connaissance d'un tout autre ordre, et que ce savoir pour elle est absolument néant ; elle ne peut pas non plus en appeler à l 'ombre d 'un savoir meilleur dans l'autre savoir » (68)

(前文で理性は認識の野に出現し、入った時には真理には程遠い現象でしか無い)を受けて、この事情が理性もまた現象であると表現される背景である。言い換えればこの知、真理を外された知が理性の表現である。しかし理性は外貌(真理に遠くなった現象)から抜け出ようとする。それは(外貌)自身に背を向けてこそ可能となる。結局、理性は、真理ではなく、物事の卑近な映像を示すだけの一つの知にすぎないけど、それを放り出せない。己に向けられる知は無と知りながらも、とある秩序で形作られている認識、その内こそ自身の住まいと安堵する。別の知、より良い知の影に身を忍ばせるなど不可と知るから。

HyppoliteSi plus haut Hegel critiquait toute critique de la connaissance, semblant approuver la philosophie de l 'absolu de Schelling本章の冒頭で存在の「絶対」をヘーゲルが語ったが、それはシェリング(自然哲学)の「絶対」を採り入れていると思える(du fait que l'absolu seul est vrai絶対のみが真理である、67頁)。しかしここで知の絶対を否定する。Comme le remarque Kroner, il y a donc à certains égards ici un retour à Kant et à Fichite. On sait de plus que, pour Hegel, le phénomène est un moment nécessaire de l'essence. La manifestation de la Science est un moment de la science, et donc elle-même science. Kroner(新ヘーゲル派)の指摘(知に絶対はない)ではカント、フィフィテ(ドイツ観念論)への回帰を示す幾つかの配慮が認められる。私(Hyppolite)は更に深めて、ヘーゲルは、現象は実質(モノ)に不可欠の節目であり、理性の節目が理性の発露であるから、(現象として表象されるにせよ)理性そのものと言えるのだ。

部族民:知savoirun savoirと別の知l’autre savoirに言い分けしている。理性がすがる知は不定冠詞un、この知は現象の知(savoir phénoménal、後文)としているもう一つの別の知には定冠詞l’autreをかぶせる。定冠詞知は絶対知であり、理性はこれを捉えられない。

理性は(不定冠詞の)別の知の脇に(en scène à côté d 'un autre savoir)に現れる。現象の知は外部のモノを持ち込むが、そこには真実がない。真理がないから認識の野に真理は生えない。真理追求に挑むヒト理性の本来的不能を、現象のからくりから説明している。理性は己の持つ概念と現象であるモノの概念と見比べる。この作業は、そもそもの仕組みから、合致しない。そして次段階へ向かう(背を向けると教える)。

 

« Elle (science) existe dans une connaissance non-véritable, c'est-à-dire à un mauvais mode de son être et à son phénomène plutôt qu'à ce qu'elle est en soi et pour soi.  C'est pour cette raison que doit ici être entreprise la présentation de la manifestation du savoir, ou du savoir phénoménal » (同) 理性が(非真理の)認識connaissance内に存在すれば、それは劣化であり現象である、己性状の「律自そして覚自」の状態と比べ下位となる。それが理由となって、ここ認識では知、すなわち現象知の行動表現だけが、仕組まれている。

Hyppolite Si Hegel n’admet pas plus qu’en 1801 l'idée d'une critique de la connaissance, il admet cependant la nécessité d'une phénoménologie, c'est·à-dire d'une étude du développement du savoir phénoménal jusqu'au savoir absolu. もし1801年(本書出版年)に認識批判以上の考えを持っていなかったとしても、一種の現象学展開の必要性は理解していた。と申すのは、現象的知 savoir phénoménalから絶対知savoir absoluに発展する研究の必要を知っていたことである。

部族民:現象の知le savoir phénoménal となって定冠詞がついた。知には絶対知と現象知が並立するとヘーゲルは主張する。ヒトが現象の野で覚知できるのは現象の知、そこには真理véritéが含まれない。

ヒトにはそもそもの理性、絶対の知が備わる。しかし思考活動に入ると現象の野でしか理性は発現しないから、絶対を失う(現象として表象される)理性に化ける。次の「律自であり覚自」である理性よりも現象にもたれる理性は「低い」。この意味は文脈からして「律自であり覚自」の理性が絶対知なのだが、本書では理性は隠れる。弁証法の進展を悟性と知の対峙行動と描写されている。

しかし最終行で「理性には論理が宿る」すなわちen soi et pour soiが再確認され、弁証法による絶対獲得が宣言される。

部族民はカントと比較して;先験(Transcendantal)に理性と認識、考える力(Entendement)に知と悟性を当てる。先験は観念的、考える力は行動する―この図式がヘーゲル現象論にも当てはまる。

Hyppoliteは弁証法の検証、反応の過程を、カントの繰り返す「批判」と結びつけた。これには「ハタと手を打った」よく理解できる。真理に遠い現象の精神は、弁証法の(moment節目の)繰り返しによって、真理に近づく。カントでは批判の重ね上げがこの動きに近似する、両者ともに目的は真理追求。こうした脚注を目にすると、ヘーゲルに西洋哲学大御所重鎮の思考の呻吟の歴史引き継いでいる感に打たれる。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 3 了 (828日)

 








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本書の内表紙
La Phénoménologie d'Esprit








導入章
Introduction
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