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Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の紹介3 |
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Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 (2024年10月23日 ブログ投稿9月6日)前書き:ヘーゲルは知を語る。「その目的は固定している、自身を越える必要性を持たない」。知はモノ世界の対象を理解するし、現象の野に持ち込む。その対象を概念化して、現象の影として現象域に投影する作業です。知の仕事とその範囲はこれだけで、それを「固定、自己を越えない」とヘーゲルが教える。しかし対象がモノ世界で具有していた実質、真理は失われる。その後、悟性に言及する。
« la
conscience est pour soi-même son propre concept, elle est donc immédiatement
l'acte d'outrepasser le limité » (本文中から) 悟性は自分自身にして覚自であり、自身の限界を知り、すぐさま越える。ヘーゲルはかく知と悟性の性状の差、そして正反対の行動を露わにする。現象世界での弁証法とは真理を表現しない概念conceptと、人がもともと所有する基準mesureのすり合わせとなります。節目事に基準は訂正を入れる、この流れが実際ではないけど実効的 « effectivement réel » 実効的実際の正体です(10月23日)。 知(savoir、知ること)を語ろう。その目的は、一連の進展の必要性が求められているの同様に、定まっている。知には己の範囲を超える活動は求められない。概念が対象に、対象が概念に合致している、それが知の己の場と言える。休みなく目的に向かうとは、前段階の(検査結果に)いかなる満足も感じていない圧力があるから。 部族民:前提に、弁証法の各段階(ヘーゲルはmoment節目=後述)は設定され、作用反作用が展開される(悟性の持つ基準と対象の概念の対峙)。前の引用で悟性が節目で、概念との対峙を経て、(自らの)形状を変えていく一連の必要を述べた。文中の «la série de la progression » が悟性の変身を受け、知にしては変化しないle but est fixéが同様aussi nécessairementと繋げる。 知が外部のモノ(対象)を認識、現象の野に持ち込むとは、対象の概念化となる。対象と概念は合致する(そのように知が活動するから)。両者はかく、紐付けされる(概念が対象に…の意味)けれど、一方で概念は対象が具有している実体から離れてしまう。よって知は自身を超える(au-delà)冒険は必要がない。知は己が創生した概念を乗り越える事はできない。 節目での対峙は不整合、絶対には到底たどり着かないから、節目段階に満足することはない。故に次段階に進む。 奇妙な一文が挟まる ; « Ce qui est limité à une vie naturelle n'a pas, par soi-même, le pouvoir d 'aller au-delà de son être-là immédiat ; mais il est poussé au-delà de cet être-là par un autre, et cet être arraché à sa position, est sa mort » (71頁)一つの生ける命に制限を課すのは、それ自身であって、あるがままの存在が、今占める場を越える力などを持たない。もしそれが他者の力を受け、自身限界を越えるとして、占めていた場から己を引き抜く他者を死と伝える。 部族民:悟性と知を語る文脈の間に挟まる。すると、この文は「悟性は自身を越える」、に対して知は越えられない。le savoir n'a pas besoin d'aller au-delà =前出、の理由付けとしか考えられない。すると生ける命une vie naturelle は知であり、が他者の力par un autre は悟性となる。 直訳の前訳文を意訳すると;知はあるがままの状態であって、自身の内外を見張る能を持たない。悟性が少しは応用を効かせろと強制すると、知は働かない。 « Mais la conscience est pour soi-même son propre concept, elle est donc immédiatement l'acte d'outrepasser le limité, et quand ce limité lui appartient, l'acte de s'outrepasser soi-même*. Avec l 'existence singulière, l'au-delà est en même temps posé dans la conscience, serait-ce encore seulement comme dans l 'intuition spatiale, à côté du limité. La conscience subit donc cette violence venant d'elle-même, violence par laquelle elle se gâte toute satisfaction limitée » (同) (前文、知はあるがままでしかない)しかし悟性は、本来の概念を内包し、それは自身に向けられる(pour soi-même)。故に限界を知り、すぐさまに己が越えるべく限界域を知る。その限界が悟性の内に現れるや、己自身を越える試みに走る。この特異な存在(限界を知り乗り越えようとする意思を抱える悟性)とともに、外部もまた悟性の内に認識される、それはやはり空間的直感の働きであろう、限界の外側を、内にして知るのみである。かくして悟性は自身の直感が発する衝撃を受ける。(現象の野の主役は知、そこで展開する « série de progression » 進展、すなわち弁証法の主役は悟性に入れ替わる) Hyppolite : *Le vivant singulier n 'est pas le « genre » pour soi, ce qu'est au contraire la conscience. 生ける個体は己に対しての区分を持たない。この点が悟性(概念を持ち自覚しそれを乗り越える)との差異である。 部族民:本文は知と悟性の差異を表す。知はモノを概念化するに留まる。悟性は本来の(自身が形成した)概念を持つ。また自身の領分も外部と境界も知る(これがen-soi, pour-soiの性状)。外部を内部に映す、これが衝撃となって自己限界を乗り越える意思、すなわち弁証法への乗り出しを説明している。 前出 « conscience naturelle qui subit une impulsion » (現象以前の)生まれながら悟性は衝撃を受ける(精神現象学Youtube動画1_2)を引き継いでより具体的に書き入れている。 「悟性」の形容にnaturelle、propre、singulierと書き分けられるが、これは弁証法に参画する以前の精神の性状。注目するのは « son propre concept » これは理性から引き継いでいる、精神が本来から持つ概念。精神であるから限界も併せ持つ。その限界を自身の限界として、それ乗り越える欲求に駆られる。限界を越えるとする。その試みへの自身から発せられる突き上げを « impulsion, violence » 衝撃、暴力と形容している。この衝撃を持って弁証法の始まり。 分かりやすく説明:オレ悟性は美の絶対をもともと所有する、しかし絶対美は精神の外側にあると知る。それは実質の美(真理)である、ヒッキーではないオレは、限界域(精神内での概念)を越えようとする衝撃を受けた。現象の野にのめり込んで、手下の知に沢口やす子嬢のブロマイドをもってこいと命じた。「ヨウガス、ホイこれ~!」で差し出された写真を見つめる。オレは本来の概念と写真の美を見比べた。 何かが合わない。「団子鼻でも我慢するか」自分の概念の形状を変えてもう一度「別の写真を出してくれ」「ほいきた、こっちだ」それでも合わない。なんか痩せぎす、貧相だね。やす子嬢がこれほどにも劣化かと、泣きながら写真をひっくり返すと沢口ヤセ子だった。悟性がいくら頑張っても低脳なる知とコンビ(entendement考える力)を組んだら、精神現象の野で弁証法が廻せない。でもオレには他の手がない。(卑近な映像を写すだけの知を首切れない=前出) ここで用語の整理; l'en-soiは即自が定訳。ここでは「律自」と訳す。自己を律し他者との関心を持たない自己、知がこれに当たる。前引用でのau-delàはl’en-soi律自を囲む外側の律界、知は外側律とは相互作用を起こさない。Pour-soiは自身を覚知している存在、覚自と訳す(定訳は対自)。自身を知るとは他者を知ると同意義。故に自他の境界を知る、自己の領域がlimité境界、その内に収納する基準はmesure。悟性は基準が絶対でないと知るから、己の境界を乗り越えようと悟性が試みる。 悟性の性状はen-soiにしてpour-soi。では知savoirは。 « le savoir n'a pas besoin d'aller au-delà de soi-même » 己自身の外に出る必要はない(出来ない)。とすると単なるen-soi、それをしてson être-là immédiatあるがままの存在とする。 « La crainte de la vérité peut bien se dissimuler à soi-même et aux autres derrière l 'apparence d'être toujours plus avisée que ne le sont les pensées venant de soi-même et des autres, comme si le zèle ardent pour la vérité même lui rendait difficile et même impossible de trouver une autre vérité sinon uniquement celle de la vanité. 真実を前にしてのオソレは、それ自身にも全ての他の背後に潜む、オソレの外貌は他の思考より見つめられる。真実を極めるとする熱意の強さ故に、見つめられている事をして、別の真実さえ見つけられない。オソレが見つけるのは常に空虚の真実である。 Cette vanité s'entend à rendre vaine toute vérité pour retourner ensuite en soi-même ; elle se repaît de son propre entendement qui, dissolvant toutes les pensées au lieu de trouver un contenu, ne sait que retrouver le moi dans son aridité. Mais cette vanité est une satisfaction qui doit être abandonnée à elle-même ; car elle fuit l'universel et cherche seulement l 'être-poursoi » (72頁) この空虚さが、真実をして空虚自身に向きを変えることを不能にしてしまう。空虚さは自らの思考力を弄ぶのみで、一つの実質を求める代わりに、あらゆる思考を溶かし不毛の中に自分を追いやることしかできない。空虚は自体が不毛に打ち捨てられるのを楽しむ。空虚は普遍から逃げる、自覚する自身を探しているだけだから。 部族民:crainte 陥穽、オソレは2度目の登場、復習、 1 オソレは感情のホツレでない。絶対を眼の前にする精神の震え、例、神を前にするオソレ 2 絶対追求の困難な道程中途での個の妥協、陥穽。必ず誤ってしまうオソレ(部族民解釈) ヘーゲルはオソレcrainteがもたらす惨禍をvanité空虚と言う。空虚は「考える力entendement」を蚕食する、なにがしかの内実を求めるとする、あらゆる思考penséesを溶解させ、個(悟性)を不毛に追いやる。「普遍から逃げる、を楽しむ自身」このあたりは懐疑主義Shulzeへの当てつけに読めるが、部族民には判定できない。 前投稿で10のオソレがありうる誤りを表にした。オソレは真実を前にしての個の不能の戒めである。上文はオソレとそれを起因とする陥穽に気付かない個の不毛を指摘する。 Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の紹介3 の了 |
ヘーゲル精神現象学の初回(全体の紹介) https://youtu.be/5JzC6p1e9B4 同本文の第1回動画リンク ヒトは現象の影で考える、現象である限り絶対にたどり着かない https://youtu.be/r1XfTUO7ohA 第2回リンク ヘーゲルはオソレを語る。無力の個が絶対を前にする心構え https://youtu.be/dfvH5yAa0Zg 第3回 動画リンク 現象の野に弁証法が展開 https://youtu.be/6sJEZTUqBbg 第4回動画リンク 限定否定が弁証法の進展を保証 https://youtu.be/3kxLZLB2rOM 第5回 動画リンク https://youtu.be/L1p0Sewi6yM 第6回動画リンク https://youtu.be/5JzC6p1e9B4
![]() この投稿の元本は ![]() 出版は1939年 赤の羊皮装丁2冊 |
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