ヘーゲル現象学とサルトルの実存主義の関連については哲学各先生が述べているとおりです。部族民としてその具体的文例を拾ったことを報告したい。



 部族民通信ホームページ   投稿2023é年10月31日  開設元年6月10日
主宰蕃神(ハカミ)義男        部族民通信  ホームページに 哲学のページに   

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の紹介4_1

 
 

精神現象と弁証法、モノに潜む思想 

本投稿のまとめ。弁証法の段階をmoment(節目と訳す)とします。そこでの精神活動をまとめています。それは概念(知が理解する対象の姿)、と基準(精神が持つ思想)の突き合わせで、整合不整合を(悟性が)判断します。これらを「一連の基準」活動とする。その一連を経験expérienceとして、訳者Hyppoliteは「弁証法そのもの」の脚注を入れています。この活動での理性、認識、知、悟性の役割を説明するのですが、最終文(次回4_2)で「精神がモノ概念を形成、しかしこの反対もあり得る」それを「モノが概念を所有し、精神は対象モノを現象と見つめるだけ」と語ります。概念を思想と言い換え「モノが思想を持ち精神はそれを経験する」と理解すると、実存主義の魁となります。

 
20241030日、ブログ投稿99日) « il peut être encore utile de mentionner quelque chose sur la méthode du développement. Cette exposition est présentée comme un comportement de la science à l'égard du savoir phénoménal, et comme recherche et examen de la réalité de la connaissance ; mais elle ne paraît pas pouvoir avoir lieu sans une certaine présupposition, qui comme unité de mesure serait établie à la base » (72)

改めてこの発展の仕組みの幾ばくかを語るも必要であろう。それは「現象の知」に関わる理性scienceの行動となる。認識connaissanceの実在性の検証とも言える。認識が発現できる前提は、基準に関わる一体性が根底に備わる場合に限られる。

部族民1:いくつかの鍵語の整理。  « développement » 文脈から推測すると、現象の野での悟性、知、概念などが絡まる一連の発展の経緯。 « science » は理性、思考の源。 « savoir phénoménal » 現象の知、 « connaissance » 認識、現象の野を生成する。上文を分解すると;

1      (弁証法的)発展はいかに進行するか、現象の知への理性の介入の有り様を検証する。

2      現象の野が生成される条件とは、前提として「基準の一体化」が(認識の)根底に確立されねばならない。基準とは精神側が形成するモノの概念(既述)、ここで説くところの一体化とは基準の生成、概念の検査などの活動の一連。この運動をdéveloppementとする。手順がまとまり検査などの実行が可となる一連が認識に用意されないと、現象の野は生まれない(考え事を始めるとは、まずは頭の中に考える場を設け、概念を思念し思考する。その突き合わせを判定する、この流れを発展とヘーゲルが教える)。

« Car l'examen consiste en l'application à la chose à examiner d'une certaine mesure pour décider, d'après l'égalité ou l'inégalité résultante, si la chose est juste ou non ; et la mesure en général, et aussi bien la science, si elle était cette mesure, sont acceptées alors comme l'essence ou comme l'en-soi » (同)

なぜなら検査は検体のモノに何某かの基準を当てる。整合あるいは不整合の結論を出す。モノは正しいかあるいは不正か。基準は(それを生成する理性も含め)、結果に合わせて、実質あるいは律自であると定められる。

部族民2:(引用の2文は続いているので、3から始める)

3      検査は(精神が本来から抱く)基準をモノに当てる。

4      同一か異種かが定まり

5      (精神が持つ)基準は実質(essence)なのか単なる独りよがり(en-soi)かを判定できる。

1~6これらを経験expérienceとヘーゲルは命名するが、Hyppoliteは弁証法そのものであると脚注する。留意点、基準が実質と同一であれば、精神は真理を掴む。しかし(常に)叶わない、基準は律自のままなので、節目が更新される。

 « Mais ici, où la science surgit seulement, ni elle-même ni quoi que ce soit ne se justifie comme l'essence ou comme l'en-soi ; et sans quelque chose de tel, aucun examen ne paraît pouvoir avoir lieu » ()

しかし理性は、野(現象)にひたすら現れるのみで、「なにかのモノ」にも同じことが言えるが、実質としても、ないしは律自としても、自らを規定しない。さらに、この「なにかのモノ」が欠けていると、いかなる検査も実現しない。

Hyppolite:*Le problème critique paraît se reposer ; Il s'agit en effet d'examiner le savoir phénoménal, en le comparant à la Science, mais la Science qui apparaît seulement ne saurait être ici posée comme l’essence. 重要な問題がここに潜む。それは現象的(実在でない)知(がもたらす対象)を、理性との関わり合いで「検査」に進む事に関する。理性は、ただこの場に現れるのみで(現象)、実質として記されていない(だから検査の実行動はとらない)。

部族民:引用の後文にある「何かのモノquoi que ce soit」 とは文脈から、精神側が形成する基準(前文でmesure)と見る。理性は精神の大元なので、一連の精神活動の仕組み解明にヘーゲルは、これを最初に採り上げた。しかし、発展運動に参加することはない。なぜか。理性は「先験」transcendantalなので、活動を安堵するだけ、理性は発展しない。そこで悟性conscienceを持ち出す(ここは部族民解釈)。

前文で明確にmesureと述べているにも関わらず「何か」と曖昧を籠める表現の背景は、理性にとってそれは「何かでしかない」、理性の視点に立つ表現と(部族民は)理解する。

一旦、現象の知に介入すると仮想し、結局その役(弁証法の展開)を理性は果たせないとヘーゲルは結ぶ。理性は観念の塊だから実際をもたない。精神においての実際réelは「考える力」entendement側の悟性がまとめる思考です。これを基準という。

「オレ、理性の弁証法への参画を頭の中でシミレーションしたのだけど、transcendantal理性ではうまく説明できない。やっぱ悟性に戻るわ」(ヘーゲル)

次文で悟性に進む;  

 « La conscience distingue précisément de soi quelque chose à quoi, en même temps, elle se rapporte ; comme on l 'exprime encore : ce quelque chose est quelque chose pour la conscience ; et le côté déterminé de ce processus de rapporter, ou de l’être de quelque chose pour une conscience est le savoir. Mais de cet être pour un autre nous distinguons l’être-en-soi ; ce qui est rapporté au savoir est aussi bien distinct de lui et posé comme étant aussi à

l'extérieur de ce rapport. Le côté de cet en-soi est dit vérité* » 72頁)

(理性は quoi que ce soitなんやらの何かに反応しない=前出=を受けて)一方悟性は、何かに向けられる何か(quelque chose à quoi)と、己自身とを峻別する。同時に(何かと)交信している。ここを深く語ろう : この何かとは悟性に向けられる何かである。(前文から)仕組みはすでに決められている、これを持ってして、悟性に向けられる何者かの主体は知である。しかるに、我々は、他のなにかに向けられるこの何かと、律自の存在を区別している。知と交流するモノは知と区別され、この交流の外側に存在として置かれる。「律自=知」の外側には「dit vérité真理とされる」 が外側に広がる。

部族民:この引用文は前出の「基準に関わる一体性unité de mesure」を説明している。登場は悟性と基準、知と概念、モノの3組。前出の次の文 « la conscience est pour soi-même son propre concept » 悟性は、本来の概念を内包し、それは自身に向けられる(前回現象学の3)。これを参考にして引用文の解釈に努めると; 

quelque chose à quoi何かに向けられる何か」は「l’être de quelque chose何かの実体」につながり、後者を「知」とヘーゲルは種明かしする。すると前者quelque chose à quoiは知の客体、概念である。「Mais de cet être pour un autreもう一つに向いているこの実体」は悟性に向く知を意味していて、それは「l’être-en-soi律自の存在」とは別物、すなわち知とは別物、その上これはêtreであるから「モノ」とみなせる。最後の « Le côté de cet en-soi est dit vérité » この律自(知)の脇の存在(モノ)はdit vérité真理とされる、これで完結する。

この文(引用した2の文)にはヘーゲル流の修辞とHyppoliteの正確な翻訳が盛り込まれている。弁証法の核心となる悟性基準と知概念の見比べ、作用反作用の仕組みが精神の現象活動の内で如何に発展するのかを記している。一部前述したが知、悟性、モノ真理を直接、指摘する言い回しではないとは、知、悟性の視点に立てば概念も基準もない、何かの何かとなる。ヘーゲルの宇宙観と捉えたい。

本紹介の第一回目に現象とは「野」と「仕組み」の2案の並立をヘーゲルが主張している。恥ずかしながら部族民は、この並立を理解できなかった。上2文の引用を読み返すと、「野」に影を落とす現象と「仕組み」に立脚して発展を実践する現象が浮き出てくる。2案並立を主張するヘーゲルの立ち位置、思想が理解できる(気がした)。

訳者のHyppoliteはヘーゲルの難しさをそのままに翻訳する。一方で(仏独、両の言語を操るフランス知識層は)原典をより難しくしているとの指摘も(ネット情報)。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 8(ブログでの番号)

(ブログ投稿911日) « Recherchons-nous maintenant la vérité du savoir, il semble alors que nous recherchons ce qu'il est en-soi. Mais, dans cette recherche, le savoir est notre objet, il est pour nous ; et l'en-soi du savoir, comme il en résulterait, serait ainsi plutôt son être pour-nous ; ce que nous affirmerions comme son essence, ce ne serait pas sa vérité, mais seulement notre savoir de lui. L'essence ou la mesure tomberaient en nous, et ce qui devrait être comparé à la mesure, ce sur quoi une décision devrait être prise à la suite de cette comparaison, ne serait pas nécessairement tenu de reconnaître la mesure* » 73頁)

Savoir知の真理を探ろう、知は律自と思える。この確認を我々が取り組むとして、知は理性(我々)の対象であり、知自身は理性に向けられている。知の律自をこの確認で明らかにしたところで、それは理性に向けた知の姿でしかない。知の実質とするモノを掴んだとしても、それは知の真実ではない、理性が認知する「知」でしかない。実質あるいは基準を理性は掴んでいる。基準に対照すべきもの、それはこの対照作業に引き続いて得られる決定であるが、それを巡りまわして基準の確認に用いることなど出来ようがない。

Hyppolite : il y a un en-soi du savoir phénoménal qui est sa vérité, mais cette vérité n 'est pas pour ce savoir et il n'est pas tenu alors de la reconnaître. C’est pourquoi le savoir phénoménal doit s’éprouver lui-même sans que nous intervenions. Nous devons être le spectateur de sa propre expérience. 現象の知に律自が宿り、それが「その知の真実」である。しかしこの真実は、その知に対するものでも、知をして真実を確認するためのものはない。現象知は理性の介入なしに、自らを律する要に迫られる。理性が確認すべき事は、本来の知の経験、である。

部族民:ヘーゲルは知の「真実」を問う。理性が知を知るとは(モノの基準)、知を客体においての精神作業なので、その確認で決めつけられる知とは、理性に向ける知でしか無い(本来の知ではない)。理性は知の本来を見極めねばならない。

留意:この文から論調が変化する。これまでは精神における現象を論じてきた。この文からモノ世界の真理と精神の関係を述べる。

« Mais la nature de l'objet que nous examinons outrepasse cette séparation ou cette apparence de séparation et de présupposition. La conscience donne sa propre mesure en elle-même, et la recherche sera, de ce fait, une comparaison de la conscience avec elle-même ; car la distinction faite plus haut tombe en elle. Il y a en elle un pour un autre, où elle a en général la déterminabilité du moment du savoir en elle. En même temps, cet autre ne lui n’est pas seulement pour elle, mais il est aussi à l 'extérieur de ce rapport ou en soi, le moment de la vérité » (同)

しかし対象の自然(真理)はこの分断、様相としてそして前提としての分断を、すり抜ける。悟性は己が本来として抱く基準を、この分断の間に投影する。検査は、こうした状況のもと、悟性自身と分断状況の比較となる。なぜなら、この分別はより高い地点での悟性に引き継がれているから。悟性は他者に向く一つの何かを保有する。その作用で知の節目を決定できる。同時に、この一つのなにかとは、その決定ためのみではない。それはこの関係外部、そして律自にも外部、に向けられる、それが真実の節目である。

部族民:引き続いてモノと精神作用の説明です。

この分離cette séparation とは知の内部での分離、悟性が現象として観察する 律自en-soi の知に対して、真理の知natureがそこにある。しかしそれは分断されている。しかしこの分離が目眩ましになって、(悟性が知を見る目が曇り)自然(対象の真理)は悟性の観察から逃れる。「分別はより高い地点での悟性に引き継ぎ」は知自身で分離を露見させていること。同じ言葉を用いず、distinctionとした。現象の知から分離している自然の知は、モノ本来を抱いている知。しかし現象の野には反映されていない(この辺りは部族民の独自解釈)。

引用文には次の含意が隠れる;これまで精神活動として現象、節目、検査、発展を述べてきたが、これらはあくまで現象の域での活動である。悟性、知には本来、実質のモノの覚知がありうる。

« Nommons-nous le savoir le concept, nommons-nous, d 'autre part, l'essence ou le vrai l'étant ou l'objet, l'examen consiste alors à voir si le concept correspond à l’objet ; si, au contraire, nous nommons l'essence ou l'en-soi de l'objet le concept, et si nous entendons par contre par

l'objet lui comme objet, c'est-à-dire comme il est pour un autre, l'examen consiste alors à voir si l'objet correspond à son concept » (74頁)

知を概念と呼ぼう。一方で実質を存在、あるいは真理を対象と呼ぼう。よって検査は概念が対象と合致するかを見るのだ。この反対で、実質ないし対象の律自を概念と呼ぶ、さらに、対象を通して概念は対象と合致するかを判断する。これが意味するところとは、対象は別のなにかに向けられるから、検査は対象がその概念と合致するかとなる。

部族民:上文の前半は「知が概念を形成する、実質は存在にある」、現象学これまでの主張。後半は「実モノ質が概念を持つ、現象の対象がその概念と合致するかを悟性が判定する」

前半の知が形成した概念を(そこに見える現象としての)対象とみなす。これはカント的で分かりやすい。これまでの解説(部族民)もこの思想を元としている。しかしヘーゲルは後半で逆を提示する。概念は実質に宿るとする。「検査は(知が覚知し現象に投影する)対象は、実質が抱いている概念と合致するのか」別の言い方では検査は「対象(現象)は本質(概念)を正しく捉えているのか」となる。

このままでは分かりにくい。そこで実質を存在、概念を思想と言い換えよう。存在は思想を宿す、その思想を経験するのが知である。後世の実存主義の主張となる。

この実存のくだりを申したくこの文節を採り上げた。サルトルも一節を読み下したのではないかと想像する(本書は1939年、サルトル初の著は1946年)。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の紹介4 了

 

 


ヘーゲル精神現象学の初回(全体の紹介) https://youtu.be/5JzC6p1e9B4

 本文の第1回動画リンク ヒトは現象の影で考える、現象である限り絶対にたどり着かない https://youtu.be/r1XfTUO7ohA

 2回リンク ヘーゲルはオソレを語る。無力の個が絶対を前にする心構え https://youtu.be/dfvH5yAa0Zg

3回 動画リンク 現象の野に弁証法が展開 https://youtu.be/6sJEZTUqBbg

4回動画リンク 限定否定が弁証法の進展を保証 https://youtu.be/3kxLZLB2rOM

第5回 動画リンク https://youtu.be/L1p0Sewi6yM

第6回(本動画)リンク https://youtu.be/TBxWYLy1yqA










現象の野に精神が概念を浮かべる。その説明図。クリック拡大







概念を具有するのはモノ、精神は対象(の形状)を浮かべるのみ後の実存主義を予告するヘーゲル、その説明図(次回)。クリック拡大









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