| 部族民通信ホームページ 投稿 令和6年11月5日 発足開設元年6月10日 |
サイト主宰 蕃神(ハカミ)義男 |
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| Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の紹介4_2 存在は思想に宿る |
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| まとめ:人の理性(精神)活動は現象の野、悟性と知はその場で対峙し交信としている。これまでこのようにヘーゲルが説明してきた。本投稿から「現象活動とは知が差し出す己の真実(sa vérité)を、悟性が見つめているだけに過ぎない」。この仕組みは真理を探れない。これから「知の真実」を語ると前置きして、知の概念と悟性の基準の正反対をヘーゲルは説明する。「概念はモノに付属する。モノは現象の外にある、故に(現象の野に住む)悟性が、(現象の野に見える)対象を通して(現象の外の)モノ概念を掴むのだ」と教える。悟性には、現象外のモノ概念(真実)を覚知できる「一つの何か」を持つと、我ら凡人を励ます」。この思想を発展させると「モノが思想を持つ、精神はそれを経験する」実存主義の魁となります。 (2024年11月5日) |
本稿のYoutube動画リンク https://youtu.be/4qlu27dSuHU |
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(ブログ投稿は9月11日) « Recherchons-nous maintenant la vérité du savoir, il semble alors que nous recherchons ce qu'il est en-soi. Mais, dans cette recherche, le savoir est notre objet, il est pour nous ; et l'en-soi du savoir, comme il en résulterait, serait ainsi plutôt son être pour-nous ; ce que nous affirmerions comme son essence, ce ne serait pas sa vérité, mais seulement notre savoir de lui. L'essence ou la mesure tomberaient en nous, et ce qui devrait être comparé à la mesure, ce sur quoi une décision devrait être prise à la suite de cette comparaison, ne serait pas nécessairement tenu de reconnaître la mesure* » (73頁) Savoir知の真理を探ろう、知は律自と思える。この確認を我々が取り組むとして、知は理性(我々)の対象であり、知自身は理性に向けられている。知の律自をこの確認で明らかにしたところで、それは理性に向けた知の姿でしかない。知の実質とするモノを掴んだとしても、それは知の真実ではない、理性が認知する「知」でしかない。実質あるいは基準を理性は掴んでいる。基準に対照すべきもの、それはこの対照作業に引き続いて得られる決定であるが、それを巡りまわして基準の確認に用いることなど出来ようがない。 Hyppolite : il y a un en-soi du savoir phénoménal qui est sa vérité, mais cette vérité n 'est pas pour ce savoir et il n'est pas tenu alors de la reconnaître. C’est pourquoi le savoir phénoménal doit s’éprouver lui-même sans que nous intervenions. Nous devons être le spectateur de sa propre expérience. 現象の知に律自が宿り、それが「その知の真実」である。しかしこの真実は、その知に対するものでも、知をして真実を確認するためのものはない。現象知は理性の介入なしに、自らを律する要に迫られる。理性が確認すべき事は、本来の知の経験、である。 部族民:ヘーゲルは知の「真実」を問う。理性が知を知るとは(モノの基準)、知を客体においての精神作業なので、その確認で決めつけられる知とは、理性に向ける知でしか無い(本来の知ではない)。理性は知の本来を見極めねばならない。 留意:この文から論調が変化する。これまでは精神における現象を論じてきた。この文からモノ世界の真理と精神の関係を述べる。 « Mais la nature de l'objet que nous examinons outrepasse cette séparation ou cette apparence de séparation et de présupposition. La conscience donne sa propre mesure en elle-même, et la recherche sera, de ce fait, une comparaison de la conscience avec elle-même ; car la distinction faite plus haut tombe en elle. Il y a en elle un pour un autre, où elle a en général la déterminabilité du moment du savoir en elle. En même temps, cet autre ne lui n’est pas seulement pour elle, mais il est aussi à l 'extérieur de ce rapport ou en soi, le moment de la vérité » (同) しかし対象の自然(真理)はこの分断、様相としてそして前提としての分断を、すり抜ける。悟性は己が本来として抱く基準を、この分断の間に投影する。検査は、こうした状況のもと、悟性自身と分断状況の比較となる。なぜなら、この分別はより高い地点での悟性に引き継がれているから。悟性は他者に向く一つの何かを保有する。その作用で知の節目を決定できる。同時に、この一つのなにかとは、その決定ためのみではない。それはこの関係外部、そして律自にも外部、に向けられる、それが真実の節目である。 |
これまでのYoutube動画(ヘーゲル) 本文の第1回動画リンク ヒトは現象の影で考える、現象である限り絶対にたどり着かない https://youtu.be/r1XfTUO7ohA 第2回リンク ヘーゲルはオソレを語る。無力の個が絶対を前にする心構え https://youtu.be/dfvH5yAa0Zg 第3回 動画リンク 現象の野に弁証法が展開 https://youtu.be/6sJEZTUqBbg 第4回動画リンク 限定否定が弁証法の進展を保証 https://youtu.be/3kxLZLB2rOM 第5回 動画リンク https://youtu.be/L1p0Sewi6yM |
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部族民:引き続いてモノと精神作用の説明です。 この分離cette séparation とは知の内部での分離、悟性が現象として観察する 律自en-soi の知に対して、真理の知natureがそこにある。しかしそれは分断されている。しかしこの分離が目眩ましになって、(悟性が知を見る目が曇り)自然(対象の真理)は悟性の観察から逃れる。「分別はより高い地点での悟性に引き継ぎ」は知自身で分離を露見させていること。同じ言葉を用いず、distinctionとした。現象の知から分離している自然の知は、モノ本来を抱いている知。しかし現象の野には反映されていない(この辺りは部族民の独自解釈)。 引用文には次の含意が隠れる;これまで精神活動として現象、節目、検査、発展を述べてきたが、これらはあくまで現象の域での活動である。悟性、知には本来、実質のモノの覚知がありうる。 « Nommons-nous le savoir le concept, nommons-nous, d 'autre part, l'essence ou le vrai l'étant ou l'objet, l'examen consiste alors à voir si le concept correspond à l’objet ; si, au contraire, nous nommons l'essence ou l'en-soi de l'objet le concept, et si nous entendons par contre par l'objet lui comme objet, c'est-à-dire comme il est pour un autre, l'examen consiste alors à voir si l'objet correspond à son concept » (74頁) 知を概念と呼ぼう。一方で実質を存在、あるいは真理を対象と呼ぼう。よって検査は概念が対象と合致するかを見るのだ。この反対で、実質ないし対象の律自を概念と呼ぶ、さらに、対象を通して概念は対象と合致するかを判断する。これが意味するところとは、対象は別のなにかに向けられるから、検査は対象がその概念と合致するかとなる。 部族民:上文の前半は「知が概念を形成する、実質は存在にある」、現象学これまでの主張。後半は「実モノ質が概念を持つ、現象の対象がその概念と合致するかを悟性が判定する」 前半の知が形成した概念を(そこに見える現象としての)対象とみなす。これはカント的で分かりやすい。これまでの解説(部族民)もこの思想を元としている。しかしヘーゲルは後半で逆を提示する。概念は実質に宿るとする。「検査は(知が覚知し現象に投影する)対象は、実質が抱いている概念と合致するのか」別の言い方では検査は「対象(現象)は本質(概念)を正しく捉えているのか」となる。 このままでは分かりにくい。そこで実質を存在、概念を思想と言い換えよう。存在は思想を宿す、その思想を経験するのが知である。後世の実存主義の主張となる。 この実存のくだりを申したくこの文節を採り上げた。サルトルも一節を読み下したのではないかと想像する(本書は1939年、サルトル初の著は1946年)。 Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の紹介4 了(Youtube動画) |
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