部族民通信ホームページ 投稿 令和8年5月15日  発足開設元年6月10日
 
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蕃神(ハカミ)義男
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サルトルCritique de la raison dialectique 弁証法理性批判 第一章方法論の課題 Question de méthode 第一部

マルクス主義と実存主義
Marxisme et existentialisme 2

 
 

本投稿「マルクス主義と実存主義Marxisme et existentialisme2」の前に (1及び1の続)をYoutube 投稿した。

マルクス主義と実存主義1の 動画リンク https://youtu.be/zHKucrj6qiE

マルクス主義と実存主義1の続 動画リンク https://youtu.be/dmA-mphkqzY

趣旨は哲学と社会運動のかかわり、デカルト、カントの思考と歴史との関わり、その要旨は哲学とは社会歴史に影響を与える「行動」を実践しなければならない。それら思考の普及が起点となって、社会運動に結びつき、歴史を導く。その代表スライド2葉をここに再掲します。

本投稿の」結語

「哲人サルトル、本書を通して、2大主役の、丁々発止、張り合う歴史弁証法舞台」

「ヘーゲルとキルケゴール」に移る。

キルケゴールが語る「神の影と自己の存在」、この存在をサルトルが踏襲した。しかしサルトルの自己には神の息吹は与えられていない。故にキルケゴールにまとわりつく不安、受難をサルトルは払拭できる。神の見えない宇宙、純粋に存在する個を前にし、自己は自由を獲得する—サルトル実存主義とされる。(主としてSNSAiからの引用、一部、定解釈から外れる)

サルトルが有神論キルケゴールを語る;

« En face de Hegel, Kierkegaard semble compter à peine ; ce n’est assurément pas un philosophe : ce titre, d'ailleurs, il l’a refusé lui-même. En fait, c’est un chrétien qui ne veut pas se laisser enfermer dans le système et qui affirme sans relâche contre « l’intellectualisme » de Hegel l’irréductibilité et la spécificité du vécu, =中略= à la « conscience malheureuse » ; mais c’est précisément ce savoir objectif que Kierkegaard conteste :

ヘーゲルを前にしてキルケゴールは(かろうじて)それなりの位置に立つ。どう捉えても彼は哲学者ではない。自身からその学であるを否定している。一人キリスト教徒の立場、故にヘーゲル主知主義に反論し(思考の)大系に留まるを望まず、生きることのかけがえのなさと特別性を、不幸な認識と同一視する。正確を期すとこの客体「知」(ヘーゲルの知)をキルケゴールは否定する。

 L’homme existant ne peut être assimilé par un système d’idées ; quoi qu’on puisse dire et penser sur la souffrance, elle échappe au savoir dans la mesure où elle est soufferte en elle-même, pour elle-même et où le savoir reste impuissant à la transformer »(page 18)

(キルケゴール)生きるヒトを思考体系に重ねてはならない。苦悩にのたうち、語り考えようと自らが苦しむ中で苦悩に憑かれているかぎり、知を取り逃してしまう。知は苦悩を昇華させるには弱体のままであるから。

 « Bien entendu, c’est la religion que Kierkegaard veut défendre : Hegel ne voulait pas que le christianisme pût être « dépassé » mais, par cela même, il en a fait le plus haut moment de l’existence humaine, Kierkegaard insiste au contraire sur la transcendance du Divin; entre l’homme et Dieu, il met une distance infinie, l’existence du Tout-Puissant ne peut être l’objet d’un savoir objectif, elle fait la visée d’une foi subjective. Et cette foi à son tour, dans sa force et dans son affirmation spontanée, ne se réduira jamais à un moment dépassable et classable, à une connaissance » (page19)

抄訳:ヘーゲルはヒト存在を最上位につけるが、キルケゴールは信仰を守る、神の超越を信ずる。神は全能者として客体になり得ない。神が存在することが、主体としての信仰の視野=elle fait la visée d’une foi subjective=を個に植え付ける。(信仰を持つ個は主体、この主体から発する苦痛、受難がキルケゴールの思想を形成する。後の引用文で感性と結びつく「主体」をサルトルが批判する)

(未引用の文)有神の実存主義であるキルケゴール、神の先験を述べた後、

On le voit, Kierkegaard est inséparable de Hegel et cette négation farouche de tout système ne peut prendre naissance que dans un champ culturel entièrement commandé par l‘hégélianisme. Ce Danois se sent traqué par les concepts, par l’Histoire, il défend sa peau, c’est la réaction du romantisme chrétien contre l'humanisation rationaliste de la foi.

キルケゴールはヘーゲルから離れられない。彼への過激ともいえる否定にしても、ヘーゲル主義が築いた文化土壌を抜きにしては語られない。このデンマーク人は、それら概念に追い詰められ、かつ「歴史」を土台にして、その表層だけを取り込んだ。彼の作品を、合理主義の人性化(ヘーゲル主義)に対しての、キリスト教信仰と憧憬に起点を置く否定反応と言えよう。

 

部族民:未引用を挟み2文で構成される。後文には比喩(換喩)が含まれる。大文字の歴史(Histoire)はヘーゲルが主張する「ヒトの理性を取り込み、それを現実に仕向ける歴史運動=絶対歴史」と理解する。人の発達を3舞台に分けたキルケゴールの人性論に、その絶対歴史の表層を取り込んだとサルトルが述べている、と理解する。

 

続いて;

 Il serait trop facile de rejeter cette œuvre au nom du subjectivisme : ce qu’il faut remarquer plutôt, en se replaçant dans le cadre de l’époque, c’est que Kierkegaard a raison contre Hegel tout autant que Hegel a raison contre Kierkegaard.

主体主義として彼の作品を退けるのは易しい。しかしあの時代にあってキルケゴールにはヘーゲル否定の合理があって、ヘーゲルにしてもキルケゴールへの否定論理を抱える。

 

部族民:subjectivismeの定訳は主観論。主体とした(théorie qui ramène l’existence à celle de la pensée = 存在を思考のそれに向かわせる説、Robert。主観ではなく主体に無理はないと思う)。これには理由が控える。前引用で主体を基盤とする信仰(キルケゴール)が論ぜられた。精神(個)か存在(モノ)か、いずれが客体か主体かの論点が本書主題の一つである。精神を作用の様態として捉えるのではなく、存在の座標として考えるーこうした観点が論ぜられている。ちなみにサルトルは思考(個)を主体とする、存在は客体。

マルクス主義の主体は「歴史」、ヒトの思考は客体。サルトルはマルクスを論ずるにも、実存主義から離れない。

彼が歴史に持ち込むPraxis=行動、を演じる個は主体であるから、実存主義とマルクス主義の融合とは「主体を主体に」対峙させるーとなる。ここに実存主義がマルクス史観に対する位置の困難が発生する。Sartre動画、前回のYoutube投稿(Cinéma Culture制作)ではこの点が鋭く指摘されている。

キルケゴールにあって個の精神は神が創造した「自己の影」を観想する主体で、その位置はサルトルと同じ。しかしながらサルトルは、キルケゴールに高い評価を与えてない(と読める)。

 

次の文章;

Hegel a raison : au lieu de se buter comme l’idéologue danois en des paradoxes figés et pauvres qui renvoient finalement à une subjectivité vide, c’est le concret véritable que le philosophe d'Iena vise par ses concepts et la médiation se présente toujours comme un enrichissement.

ヘーゲルは正しい。貧しく凝り固まった逆説状況に身を委ねるデンマーク思想家、結局、空虚な主体主義に陥る。イエナの哲学者は具体真実を見つめる。概念と思考の介在(弁証法)をもって、彼の視野は常に豊かな思想にあふれる。

Kierkegaard a raison : la douleur, le besoin, la passion, la peine des hommes sont des réalités brutes qui ne peuvent être ni dépassées ni changées par le savoir ; bien sûr, son subjectivisme religieux peut passer à bon droit pour le comble de l’idéalisme, mais par rapport à Hegel il marque un progrès vers le réalisme puisqu'il insiste avant tout sur l’irréductibilité d’un certain réel à la pensée et sur sa primauté. » (page19)

キルケゴールは正しい。ヒトの苦しみ、欠乏、受難、痛みは荒々しい現実です。その実態は知では救われない。信仰から発する彼の主体主義は、理想主義の頂点に立つ資格はもちろんある。そしてヘーゲルに比べては、前向きの現実主義の一歩を見せた。思想とその最上点はなにがしかの現実と分離できない、まずそのことを主張したのだから。



 ここからは マルクス主義と実存主義Marxisme et existentialisme 2の続

(2026年5月20日) 部族民:上引用の2文、前文ではキルケゴールを(空虚な主体主義)と批判し、後文では批判を控える。サルトルの着目点、キルケゴール主体主義はヒト感性と結びつく、特にキリスト教の大綱(思考を弄んではならない)に合わせ、ヒトは思索しても無意味、現実に苦しむ。ヘーゲルから一歩、教会側に後退したからと思えます。GoogleAiは「キルケゴールは、デンマーク国教会の形式化した信仰を批判し、個人の「主体的な信仰」を追求した。不安や絶望の中で神と一対一で向き合う」ここでも彼は「思考」から外れている。

 

マルクス主義に繋がる;

Pour Marx, Hegel a confondu l'objectivation, simple extériorisation de l'homme dans l’univers, avec l’aliénation qui retourne contre l’homme son extériorisation. Prise en elle-même — Marx le souligne plusieurs reprises — l’objectivation serait un épanouissement, elle permettrait à l’homme, qui produit et reproduit sans cesse sa vie et qui se transforme en changeant la nature, de «se contempler lui-même dans un monde qu’il a créé » (dito)

マルクスにしてみるとヘーゲルは「客体化」に混乱を生じている。ヒトを単に宇宙外界に置いただけで、結果としてヒトには疎外(真理にたどり着かない)が外界周囲としてまとわりつく、これだけだった。マルクスは幾度か言及しているが、客体化は綺羅星の連続のようだ、ヒトは生を創りまた創り、自然を変えていく力に変身し、己が創った世界に瞑想を続ける。(思考の)客体はそんな行為をヒトに許すのだ。

部族民:マルクス歴史弁証法ではヒト、哲学者の「歴史進行に関与」、例えばブルジョワ革命は新興工業家がヘーゲル思想に鼓舞された過程が説明されている(本投稿シリーズの序章で解説)。サルトルはこの著作を通じてヒトの歴史参画を主張するのですが、マルクス主義に於いてもヒトのその動きは重要と決めつけ、後文で展開する(実存主義的)個の行動「praxis, pratico-inerte」の露払いとして捉えられる。

(マルクスは個の行動参画を記していない、praxisは「集団行動」と理解される)

 

Marx a raison à la fois contre Kierkegaard et contre Hegel puisqu’il affirme avec le premier la spécificité de l’existence humaine, et puisqu’il prend avec le second l’homme concret dans sa réalité objective. Il semblerait naturel, dans ces conditions, que l’existentialisme, cette protestation idéaliste contre l‘idéalisme, ait perdu toute utilité et n’ait pas survécu au déclin d’hégélianisme (page 21)

マルクスはキルケゴールにヘーゲルに対しても正しい。前者を通してヒト存在の特別性を、後者とは客体現実の中での、ヒト存在の具体を獲得した。そうなると実存主義、この観念主義に対する観念的反対、はヘーゲル思想の衰退に伴って有効性が消え、もはや存続が許されなくなった。

部族民:ここでの「実存主義」はキルケゴールのそれで、観念論はヘーゲル思想と読む。

サルトルはヒト存在の「特異性」をキルケゴールから学んだ。何を言っているのか。絶対を前にヒトはそれと向き合う(特別性)、キルケゴールの絶対は神、神が形成した自己。その対峙に不安を感じる。この構造をマルクスが見本としたのか。歴史の絶対進行の前にヒトは行動praxisする。この行動をキルケゴールから学んだとサルトルが喝破したのか。

ヘーゲルからは「ヒトの具体」を獲得したと語る。具体とは「己を客体化してモノ世界に飛び込む」(精神現象学)。ヒトの特異も具体もマルクスがその主義に取り込んでしまったからヘーゲル主義が衰退し、その対抗で論陣を貼るキルケゴールも忘れ去られるとサルトルが指摘する。

(解釈は部族民の独自です、より簡明な説明はありうるので皆様の批判を仰ぐ)。

 

« le marxisme a des fondements théoriques, il embrasse toute l'activité humaine mais il ne sait plus rien : ses concepts sont des ‘diktats’ ; son but n'est plus d'acquérir des connaissances mais de se constituer à priori un Savoir absolu. En face de cette double ignorance, l'existentialisme a pu renaître et se maintenir parce que parce qu'il réaffirmait la réalité des hommes, comme Kierkegaard affirmait contre Hegel sa propre réalité. Seulement le danois refusait la conception hégélienne de l'homme et du réel. Au contraire l'existentialisme et marxisme visent le même objet mais le second a résorbé l'homme dans l'idée et le premier cherche partout où il est, à son travail, chez lui, dans la rue. Nous ne prétendons certes pas comme faisait Kierkegaard que cet homme réel soit inconnaissable. Nous disons seulement qu'il n'est pas connu » (page 28)

訳:マルクス主義には確固たる理論が備わる、この思想はヒト行動の全てを把握する。しかしそれ以上には動かない。主義の概念はdiktat(強制命令、ドイツ語)、認識を求める哲学ではない、しかし絶対知を先験的に構成している。この (マルクス主義の) 二重の欠如によって実存主義が再び活性を帯びることとなり、自身で成り立つ状況につながった。なぜならば実存主義がヒトの現実を再肯定するからである。この関係は、キルケゴールが、ヘーゲルに対し(ヒトとして)の「本来のあり様」を突き付けた姿勢と軌を同じくする。デンマーク思想家はヘーゲル概念を否定するに踏みとどまったのだが。

一方、実存主義とマルクス主義は対立せず、ともに、同じ対象に視線を投げ掛けている。後者(マルクス主義)はヒトを思想の中に溶解し、消してしまうが、前者 (実存主義) ヒトの実体、どこにいるのか、仕事中か、居宅、街中かを常に探している。キルケゴールとは異なり、我々 (実存主義) はヒトを認識不可とは言わない、知られていないと主張するのみだ。

部族民:伝えかけが読める。1) マルクス主義は絶対知(歴史弁証法)を先験として具有する。すなわち自律する主体である 2) 一方、個としてのヒトへの配慮を一切巡らさない 3) 個としてのヒトをの存在を追求する実存主義は、マルクス主義が欠落した部分を補う。マルクス主義を再興できる。

しかし問題が。主体の歴史弁証法に主体の(実存主義の)個が対峙して、どちらが歴史を進展させるのか。個が弁証法に乗り込んでも、ヘーゲルが感じた疎外に苛まれるのでは?

しかしこんな心配は凡才部族民の杞憂でしかない、と反省する。

哲人サルトルが本書を通して、2大主役が丁々発止と張り合う歴史弁証法舞台を、観劇すると決めた。 

 

 

サルトルCritique de la raison dialectique 弁証法理性批判 第一部マルクス主義と実存主義Marxisme et existentialisme 2

 

 



サルトル弁証法理性批判の紹介 II およびII続のYoutube
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マルクス主義1の代表スライド
2葉その1




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