| 部族民通信ホームページ 投稿2025é年2月20日 開設元年6月10日 |
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ヘーゲル精神現象学 本文Conscience悟性の章 第一部LA CERTITUDE SENSIBLE, OU LE CECI ET MA VISÉE DU CECI |
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これまでのまとめ;本投稿を通しての鍵語:蓋然、即座、介在、否定―は(上)の冒頭に記した。その一文、「鍵語は1 Certitude sensible感じる蓋然 2 Immédiat即座 Médiation 介在 3 Négation・Affirmation・Détermination否定肯定決定(弁証法)。Certitudeは「あり得るかな、無いかな」の精神作用…」(1月21日投稿のYoutube動画を参照)
本連続投稿(1月21日~全3回)の結語;モノは実質で、それを「見えるままの姿」で捉え、自己内に表象するのは、最も貧弱な真理しか掴めない。モノは実質の即座と、表現である介在に分かれる。即座は「これはこれ」「今は今」でしかない。介在を受け「これは木」「今は夜」とモノとしての表現に至る。その表現は朝になると風化し否定される。悟性は「感じる蓋然」の精神作用をもって介在と否定、そしてこの繰り返しが「普遍」と理解する(文末にも掲示)。
ここからII部に入る。冒頭の一文:
« La force de sa vérité se trouve donc maintenant dans le moi, dans l’immédiateté de mon voir, de mon entendre » (85頁). その(certitude)真実の力は私(悟性)に宿る。悟性が、見て聞く即時判断 、に宿る(関係は逆転した=certitudeが客体だったのは弁証法以前、その作動以降、悟性の精神作用になって主体を獲得した=前回)。
部族民:先程、判断には不備と否定した即座immédiatetéが再登場する。以下に考えたい。蓋然を持たない即座判断は「貧しい真実」。逆転の後、精神(悟性)が「感じる蓋然」を取り込んでからは、モノを即座に見ても、そこに蓋然(正しいのか誤りか)の精神作用が発動する。そして介在が否定され、繰り返されるモノ世界を、正しく精神に取り込める。
« La certitude sensible démontre en elle-même l'universel comme la vérité de son objet. » 感じる蓋然は自身の内に(モノの)普遍をその対象の真実として有する(85頁)。
次文はくだけた言い回しに替わる;(原文引用なし)モノ流転を見つめる我、悟性。木を見てここは木と確信し、別の機会に家を見るとここは家となる。mais l’une disparaît dans l’autreそして一の真実はもう一方に吸収される。 « la certitude sensible fait en elle-même l'expérience de la même dialectique » (dito)(悟性内の)感じる蓋然は(モノ世界と)同じ弁証法を経験する。
度々述べたが、ここで実質essenceと普遍universelの差を改めて明確にしたい。
モノそのものは実質。実質は真実である故、変化、風化はありえない。ここ、今はモノであり変化しない。モノは即座性 immédiateté として存在する。そのモノが介在を受け自己表現する(他者に見てもらう)。モノを見るときに介在を通し、悟性が判断する。「今は朝」「ここは家」など。ここで「感じる蓋然」の作用が発動し、悟性は「今は朝」の観察は、それがなされた時点で誤りと知る。もはや朝ではない。朝は過ぎ去った、昼になっているーと修正を入れる。蓋然の精神作用です。
否定され変遷するモノ世界、これが宇宙の「普遍universel」。蓋然の精神作用なくして、悟性は普遍をとらえられない。補強された悟性が普遍を知る(2段ロケットながらブースターを発動したから2段半かもしれない。Hyppoliteはこれをして3段階目=後述=と指摘)
« Ce qui ne disparaît pas dans cette expérience, c'est le moi en tant qu'universel, dont le voir n'est ni la vision de l'arbre, ni la vision de cette maison, mais le voir simple, médiatisé par la négation de cette maison, etc. et demeurant cependant simple et indifférent à l'égard de tout ce qui est encore en jeu, la maison, l'arbre, etc. Le moi est seulement universel, comme le maintenant, l'ici ou le ceci, en général » (86頁)
この経験過程で変わらず一貫している要素は、普遍としての私(悟性)のみである。その視界とは木でも家でもない、単純な「見る」であり、その「見る」は介在として家などを否定するが付加されている。連なる木、家、朝などには無関心のごく単純な「見る」です。私悟性のみが、一般的な「今」「ここ」「これ」と同じにして、普遍です。
部族民:弁証法と「感じる蓋然の付帯する」悟性(le moi)の関係を語る。悟性はモノを見つめるけれど木、家など視界(vision)の個々の介在の様に拘泥していない。木を見て視界を回し木から家に移り、木を否定する。変遷を感じ取られるのは、「感じる蓋然」を取り込み、その精神作用を受け、「ここは木であるが正しいのか?今は夜であるも変化するか?」否定が芽生え、普遍に近づく。
« Je vise bien un moi singulier, mais aussi peu puis-je dire ce que je vise dans le maintenant et l'ici, aussi peu le puis-je dans le moi. En disant ceci, ici, maintenant, ou un être singulier je dis tous les ceci, les ici, les maintenant, les êtres singuliers » (同)
私悟性はとある一つの「個別の私」を正しく見られる。しかし「今」、あるいは「ここ」の中に何があるかについて述べることは難しい。さらに「私」には何が在るのかも言えない。これ、ここ、今、ある個別の存在を述べながら、私はあらゆるこれ、ここ、今、全ての個別の存在を言っているのだ。
部族民:これ、ここ、今などは実質にして個別性を自己内にとどめる(変遷しない)。しかし実質とは異なる普遍を追求している感じる蓋然は、一の個別を通して「すべての個別」普遍を語る。から。モノの普遍とは肯定、否定が連なる変遷運動であって、それは「今は夜」などを通じて感じ取られる。そして個の内部に、モノの蓋然が「感じる蓋然」として移植される。
IIでは悟性のモノの見方を語った。悟性は感じる蓋然を身に抱え込み、即座で見ているモノは、実質と介在に分離できるを知る。ここに2段ロケットブースター点火に至り肯定、否定のモノ世界の変遷を、自身の内に取り込む。すなわち経験する。
III部に ;
« La certitude sensible expérimente donc que son essence n'est ni dans l’objet, ni dans le moi, et que l'immédiateté n'est ni une immédiateté de l'un, ni une immédiateté de l'autre. Car dans les deux ce que je vise est plutôt un inessentiel, et l'objet et le moi sont des universels dans lesquels ce maintenant, cet ici et ce moi que je vise, ne subsistent pas, ne sont pas » (87頁)
感じる蓋然は己の実質が対象にも、私(悟性)にも宿らないと理解する。即座性は前者(対象)にも後者(私)にも宿らないことも明確にする。なぜならいずれの場合にも、私が見つめているモノは非実質である。私が見る「今、ここ、この私」は存在しない場合にのみ、対象とこの私は、普遍となる。
部族民:モノ世界を観察する2の方法を挙げている。1は感じる蓋然を通して(実質でない、普遍)を探る 2に即座性 immédiateté を即座観察(即座に見極める視線)と言い換え、対象の実質を捉える思考。ヘーゲルはいずれも実質は捉えられないと諭す。1にしても2でも眼の前のモノは、見ている時点では存在するけれど、次の時点で否定され消される。すなわちヒトが感じ取った時点で、すでに非実質となる。それらが消えた時に否定が成立し、肯定否定の普遍が明らかとなる。
私悟性がモノ世界を見たとして、実質は捉えられない。しかし介在を受けているモノ、その介在が変遷することは気づく。これを普遍として、それを私は観察する。言い換えて「それらが存在しない場合に」私は普遍を見ると述べている。
(ヘーゲルのこの論法。不在は見えている、その個体が消えて普遍を証明する。経糸に見えない実質、横糸に見たい普遍を絡める。弁証法がふと浮き上がる、この修辞にゾックと震えました。私事ですが)
« Cette pure immédiateté ne concerne plus en rien l'être-autre d'un ici comme arbre qui passe dans un ici qui est non-arbre, d'un maintenant comme jour qui passe dans un maintenant qui
est nuit ; elle ne concerne plus en rien un autre moi, pour lequel quelque chose d'autre est objet » (87頁)
この純粋即座(判断)は「木であるこことは別の存在」と関わりを持たず(個別、実質のココを判断するだけ)もう一人(即座判断を採らない)の私、彼にとって何かの別のモノ(介在が付帯するモノ)が対象である、とも関わりを持たない。
部族民:Pure Immédiatetéを純粋としたが、単純が正しい。
前引用文に続いて2の思考を対照する。単純に即座判断する(弁証法を知らない)私conscienceを、まず想定する。彼は「ココは木、否定され、ココは木でない」の変遷に関心を持たない。
するとこの即座性は、「感じる蓋然」を体得する別の私(un autre moi)にも関心を持たない。純粋即座とは(弁証法以前)の個となる。弁証法、モノの普遍を見極められない。(カント、ドイツ観念論を批判していると受け止める)
« Maintenant ; il a déjà cessé d'être quand on le montre ; le maintenant qui est, est un autre que celui qui est montré, et nous voyons que le maintenant est justement ceci, de n'être déjà plus quand il est. Le maintenant comme il nous est montré est un passé, et c'est là sa vérité ; il n'a pas la vérité de l'être. Donc il est pourtant vrai qu'il a été. Mais ce qui a été, ce qui est passé, n'est en fait aucunement essence, il n'est pas, et c'était à l'être que nous avions affaire » (88頁)
今、それを示した時には、すでに存在は終わっている。存在する今は、示されたその今ではない。我々は今を確実にこれと見るが、存在した時はすでに消えている。それが示された時に、今はすでに過去になっている、それが今の真実。(示された)今は存在する真実をもたない、今は存在しない。しかし、その今は存在していた。存在していてが過ぎ去った今は、もはや実質とはならない。我々(理性)がかかわりあった時点では、存在していたのだが。
続く文は悟性 « je私 » が「今」を認識する過程を箇条書きにする。
1) j'indique le maintenant et il est affirmé comme le vrai ; mais je l'indique comme un passé, ou comme ce qui est supprimé, je supprime la première vérité 私は今を示す、今は真実として確認される。しかし、過去の消されたモノとして、私は示しているにすぎない。最初の真実は消される。
2) maintenant j'affirme comme la seconde vérité qu'il est passé. qu'il est supprimé 私は否定され過ぎ去った今を、2度目の真実として肯定する。
3) mais ce qui est passé n'est pas. je supprime l'être-passé ou l'être-supprimé, en d'autres termes la seconde vérité : je nie ainsi la négation du maintenant et reviens par là à la première affirmation, que le maintenant est(Page88). 過ぎ去ったモノは存在しない。故に私は、過ぎ去って消された存在、2度目の真実を、消す。このように私は「否定されている今を」否定する。そして最初の肯定、今は存在する、に立ち戻る。
部族民:本章の核心 、経験の第一段は「存在(介在)の肯定」、しかしすぐに否定する。2段目は「消去されたモノは存在しない」事実の肯定、3段目は否定されている存在を否定し、最初の肯定に立ち戻る。こうした否定肯定は、「モノ世界の普遍」が悟性に憑依し、感じる蓋然としてモノ世界を体得して、蓋然が精神作用で発動する。弁証法が展開するのはモノ世界であり、精神がそれを現象の野で経験する。
« Le maintenant et l'acte d'indiquer le maintenant sont constitués de telle sorte que ni l'un, ni l'autre ne sont un Simple immédiat. mais sont un mouvement qui a en lui divers moments » (dito) 今、及び今を規定する行為(肯定し否定する)とは前者にしても後者も、単純な即座で成り立っているのではない。その内に幾重にもの節目を内包している(上記の1~3如く段階を経る)。
« L'acte d'indiquer est donc lui-même le mouvement qui exprime ce que le maintenant est en vérité, un résultat précisément ou une pluralité de maintenant rassemblés et unifiés » (89頁)
(弁証法の運動を)表現する行為は、それ自体が(弁証法の)運動となる。その運動が「今」は真実である事を表している、真実とは一の結果であり、あるいは、積み上げられ一体に統合された複数体である。
部族民:前前引用文(上記の1~3)を引き継ぎ、節目と節目の相乗関連を運動 le mouvement として説明している。モノと精神現象の繋がりを示している。
Hyppolite : C'est précisément ce résultat, cet être réfléchi en soi-même ayant en lui la multiplicité, qui sera l'objet nouveau de la conscience percevante. On notera que pour Hegel la richesse du contenu que la conscience sensible croit tenir lui échappe en fait et que cette richesse appartient à la conscience philosophique que la conscience sensible considère comme abstraite(89頁) まさにこれが結果(運動le mouvement)です。自身を反照し、その内には複数の(節目の)積み上がりを含む運動、更に、知覚する悟性はそれを新たな対象とする存在です。留意すべき点は、ヘーゲルにとって「感じる悟性」が留めていると確信している豊さでは、その内実が、結果として(豊かさから)離れてしまう。そしてこの「豊かさ」は「哲学的悟性」に属するものであり、「感じる悟性」はこれを抽象的と判断するに至る。
部族民:引用の文に用いられている「感じる悟性」は「感じる蓋然」とは対極に位置する。「感じる悟性」は前前文で論じられているImmédiateté即座の判断と対をなし、これをしてヘーゲルは「哲学的とする。蓋然ではなく、明確に判断する悟性で感じる蓋然の観点からすれば、それは「抽象」に陥るとヘーゲルは批判する。
« Il est clair que la dialectique de la certitude sensible n'est rien d'autre que la simple histoire du mouvement de cette certitude ou de son expérience, et il est clair que la certitude sensible elle-même n'est rien d'autre que cette histoire seulement » (同)
感じる蓋然が展開する弁証法は、運動(肯定否定)の単純な歴史(繰り返し)以外の何者でもない。その運動とは「蓋然」あるいは、過程としての経験が投影されている。感じる蓋然はこの歴史そのものです。
部族民:感じる蓋然は思考とする、歴史の否定肯定を理解する。まさにマルクスを予言している。
« Toute conscience supprime de nouveau une telle vérité : par exemple : l'ici est un arbre, ou le maintenant est midi, et prononce le contraire : l'ici n 'est pas un arbre mais une maison ; et ce qui dans cette affirmation supprimant la première est de nouveau une semblable affirmation d'un ceci sensible, elle le supprime de la même façon » (90頁)
悟性は以下のような真実を幾度も、新たに否定する。その例は「ここは木」「今は正午」、そして反対を言う「ここは木ではない、別物」…そして最初の肯定を否定する新たな肯定は、また新たに何事かを知覚して、「感じるそれ」を肯定し否定する。
部族民:ここに結語を見出す。
本連続投稿(1月21日~全4回);モノは実質で、それを「見えるままの姿」で捉え、自己内に表象するのは、最も貧弱な真理しか掴めない。モノは実質の即座と、表現である介在に分かれる。即座は「これはこれ」「今は今」でしかない。介在を受け「これは木」「今は夜」と自己表現に至る。その表現は朝になると風化し否定される。悟性は「感じる蓋然」の精神作用をもって介在の否定、この繰り返しを「普遍」と捉える(本文の冒頭に前出)。
ヘーゲル精神現象学 本文Conscience悟性の章 第一部LA CERTITUDE SENSIBLE OU LE CECI ET MA VISÉE DU CECI(感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界)了 |
![]() Youtube動画の巻頭のサムネ モノには実質(真理) と介在(普遍) があるのだーとヘーゲル先生の主張を載せている。 ヘーゲルの精神現象学 La Phenomenologie de l'Esprit (初版Aubier本、1936年出版)。わりあい稀覯本の範疇に入る。閲覧したければ8600キロ先のエックス(南仏)大学図書館に行くしか無い。 ![]() 我らがヘーゲル先生。デカルト・カントはもう古い、これからは弁証法だ! の心構えを忍ばせている。 ![]() 精神現象は多段ロケットでモノ世界を覚智する。1段目に続く2段目には「感じる蓋然」が普遍を掴む。 |
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