部族民通信ホームページ   投稿2023é年10月15日  開設元年6月10日
主宰蕃神(ハカミ)義男        部族民通信  ホームページに 人類学のページに  哲学のページに  
歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判 2  
 
第9章、章題ページ クリック拡大
 

思考とは挿話的で地理限定
弁証法にさ迷うサルトル
 Descartesは分解して分析
誤謬推理(paralogisme

ここからは幾つかの文節を拾って解釈します。思考の限定性と弁証法の一般性について;

 « dans quelle mesure une pensée, qui sait et qui veut être à la fois anecdotique et géométrique, peut-elle être encore dialectique ? La pensée sauvage est totalisante ; en fait, elle prétend aller beaucoup plus loin dans ce sens que Sartre ne l’accorde pas à la raison dialectique, puisque, par un bout, celle-ci laisse fuir la sérialité pure (dont nous venons de voir comment les systèmes classificatoires réussissent à l’intégrer), et que par l’autre bout, elle exclut le schématisme… » (野生の思考第9292)

一つの思考とは挿話的で地理的限定であるのに、弁証法でもあるとはどのような仕組みだろうか。先住民の思考は(弁証法的意味として=訳者)統括的である。実際にその思考は(弁証法的に)統括する方向に進展しており、サルトル流の弁証法解釈(神の弁証法)では規定出来ない。なぜなら、彼の弁証法は一方の端で連続性を純粋(単純運動)に追いやり、分類体系を再結合したかを見てきた。他方の端では図式化を拒絶している(代わりに弁証法の断定主義を)採るのだから。

引用文は章題「Histoire et Dialectique」の真下に置かれます。この文をして9章の伝えかけの凝縮となる。

「一つの思考」を思考が捉える事象と読む。歴史家が歴史思想を形成するために捉えた事象、それは挿話的(偶発)、地域限定でしかない。なぜそれが(連綿と継続する)弁証法に組み込まれるのか(組み込まれない、反語)。

「発生する事象に対して否定(反作用)が生じ人は行動する(praxis)」。このような弁証法展開をサルトルが開陳するが、レヴィストロースにとり事象は「挿話、地域」での法則でしかないと規定する。「一の事象が神の弁証法なる法則に組み込まれるなどありえない」となる。

次の語 « Sérialité » は難解。フランス語に存在しない。近い語sérialisationの派生と見る。こちらの語も実はサルトル造語。意味として « perte du sentiment d’appartenance à la collectivité humaine, surgissement d’anomalie conduisant d’un membre à vivre chacun pour soi dans l’hostilité envers les autres » (辞書Robert)。 いずれかの人間集団に属するとの心の安心を失い、規則なしにそれぞれが自分のためだけに生き、他者への憎しみだけを抱く。ナチス収容所では個性(名前)を剥奪し番号化する状態が例。この語を元にして « …ité » に派生するとその状態である事、となる。

すなわち「事象が個別性を剥奪され、弁証法の運動の中に機械的に押し込まれている状態」。事象をこの状態に純粋(pure)に徹底的に、追いやっている。すると事象とは「挿話的、地域限定的」であるを否定される。あらゆる事象が、実は、弁証法の宇宙の中で前もって決められた位置に収まる、となる。

ここが「分類体系を再結合」の意味合いです。弁証法の機械的運動、その中に社会の有様も人の命も規定される。

 

サルトルが排除したかった図式schème=上引用=を調べると  « chez Kant, schèmereprésentation qui est l’intermédiaire entre les phénomènes perçus par le sens et les catégories de l’entendement » 思弁が組み分ける範疇(思想)と感知した事象の間を取り持つ表象(Le Robert)

人が外界を理解するにあたり、対象とする事象と、自己がそれを理解する思考(entendement)を結ぶ繋ぐ頭の動きと言える。

この説明から図式化を探ると 1単純化した表現形式(図であり文章であり、頭に描く概念でもあり得る) 2思弁として考えついた内容(あるいは理性が解いた対象物の本質)。12を結びつけ、事象を定義する思想を規定する。それを表現する(図など) となる。人の当たり前の思索行為です。

その当たり前思考を排除するー理由は皆様に自明かと。事象は弁証法の連続性(sérialité)に位置づけられるから、個別性(particularité)を詮索する、図式による思索、表現は、無意味であるとサルトルはが強弁している。

 

弁証法にさ迷うサルトル、この躊躇こそ(本文の原点1が示す)サルトルの使い分けです。彷徨いの原野の1は理性、もう一方は世界観。理性論で分析手法であるヘーゲル弁証法(思弁的弁証法)を受け、世界観(歴史)ではマルクスを借り受けた。その絡繰りがレヴィストロースに読み取られた。

もう一文;

 « Sartre attribue à la raison dialectique une réalité sui generis: elle existe indépendamment de la raison analytique, soit comme son antagoniste, soit comme sa complémentaire »  (293)

サルトルは弁証法理性にあるがままの現実性を与えている、分析的理性からは独立しているとの意味である。そして両者は時に反対し、時に補完する。

引き続いてサルトル思考はマルクスに由来すると暴く。しかし一方でマルクス思想はサルトルに比べこの対立が相対的 « l’opposition entre deux raisons est relative » ともしている。サルトルの抱えるもう一つの面が浮き出る。サルトルはマルクス主義を越したレーニン毛沢東の支持者であると。

 

« Pour nous la raison dialectique est toujours constituante : c’est la passerelle sans cesse prolongée et améliorée que la raison analytique lance au-dessus d’un gouffre dont elle n’aperçoit pas l’autre bord tout en sachant qu’il existe, et dit-il constamment s’éloigner »293頁) 

我々にとって弁証法理性とは常に「基盤」となる理性である。思弁に潜む底なしの陥穽、分析理性は向かい側に何かがあると知るけれど、見えてこない。その上だんだん遠ざかり、間断なく拡大する。その橋渡し役割を担う弁証法理性によって救済されるのだ。分析理性が時に陥る袋小路を換喩(底なしの陥穽)に託して説明している。

この陥穽とはなにか、分析理性の限界点でしょうか。分析のみでは事象に潜む真理にたどり着けない。そこでカントは「図式」を理性と事象の介在に置く。

« Dans notre perspective, le moi ne s’oppose pas plus à l’autre, que l’homme ne s’oppose au monde : les vérités apprises à travers l’homme sont « du monde », et elles sont importantes de ce fait ! On comprend donc que nous trouvions dans l’ethnologie le principe de toute recherche, alors que pour Sartre elle soulève un problème… » (295)

我々(民族学者)の視点では人は世界に対立しないし、それにまして「私」は他者と対立しない。別の言い方では人を通して獲得された真実は世界であり、それら真実が重要なのはその事を持ってするからである。故に民族学の中にすべての研究の原理を見つけられるとは、人々の同意を得る事が出来るであろう。しかしサルトルには民族学が問題である….

民族学は人と社会を対立関係に置かない。人が制度、規則を定めて社会を形成する。人は他者と相まって社会と同体です。しかしサルトルは人と社会を対立に置いている。こう伝えかける文意が読める。サルトルが採り上げる対立、人と社会、個と他者とはなにか。それは歴史弁証法の世界観であると理解する。

 

続ける;

 « En effet, peut-on faire des peuples sans histoires, quand on a défini l’homme par la dialectique et la dialectique par l’histoire ? » 296頁)

訳:それならば歴史を持たない人を造れるのか、人を弁証法で規定して更に弁証法が歴史だと決めつけているのに。

サルトルにとって「劣っている人類」は歴史のない民族、弁証法の歴史をたどる文明人とは別種と規定する。マルクスの唯物史観を持たなければ人は理性を持てないとつながる。歴史のない民族は劣等―これも偏見。

 « Sartre semble tenté de distinguer deux dialectiques : la « vraie » qui serait celle des sociétés historiques, et une dialectique répétitive et à court terme, qu’il concède aux sociétés dites primitives tout en la mettant très près de la biologie »

サルトルは弁証法を2の種に分類しているようだ。1は真の弁証法で歴史を持つ社会に当て、短周期で(同じ様態を)繰り返す一種の弁証法を、いわゆる未開社会、文明とはほど遠い生物学的世界に当てはめている。

 
 

















サンジェルマン・デ・プレのカフェ
ドゥーマゴは実存主義輩のたまり場。サルトルは指定席でくつろぐ
   

民族学者(レヴィストロース自身)は人と世界(歴史のあり方)を一元で解釈し、サルトルは文明と未開に二分した。分けた理由は弁証法歴史を経験していないから、頭の中が(我々と異なり)弁証法化(文明化)していないとの独断。

 « il expose ainsi tout son système, =中略=le pont démoli avec tant d’acharnement entre l’homme et la nature se trouverait subrepticement rétabli » (296)

訳を試みる前に、訳わからない換喩が出てきた:

Acharnementとは執拗な攻撃。人と自然の間にそれが起こって、橋が壊された。これらの語は換喩(métonymie)です。喩えが何を言い換えているのか「見当」付けから始めないと先に進まない。=中略=の部分を抄訳すると「民族誌学、それは真摯に人と社会を究明する学であるが、その成果を斜めに(par le biais)読み取って」が入る。するとこれら換喩は民族誌、さらに前文にある弁証法的社会と短周期社会とも関連があるとで推察する。

弁証法を持つ文明側をhommeとしてnatureは未開社会としよう。攻撃とは文明と未開の衝突。すると訳は;

この一文がサルトルの中味をすっかりさらけ出した。=中略「民族誌学、それは真摯に人と社会を究明する学であるが、その成果を斜めに(par le biais)読み取って」=人(すなわち文明)と自然(すなわち未開)の間に繰り広げられた闘争、その結果の崩れ落ちた橋をこっそり修繕したと思い込んだのだ。

サルトルが読み込んだ「民族誌」は何か?原文に当たらないから不明である。そうした民族誌も真摯な人類研究なのだがサルトルが曲解したと読む前提がある。

 « Sartre se résigne à ranger du cote à l’homme une humanité « rabougrie et difforme »サルトルは人(文明)の脇に一種の « 出来損ないのカタワ »の人社会を置くことを自ら甘受する。

 

« non sans insinuer que son être à l’humanité ne lui appartient pas en propre et qu’il est  fonction de sa prise en charge par l’humanité historique : soit que , dans la situation coloniale , la première ait commence à intérioriser l’histoire de la seconde… »296頁)

訳:出来損ない社会が人間社会に属している事への不合理さに加え、歴史社会(文明)から負荷される役割を取り込む事で(その未開)社会が成立するのだと(サルトルは)あからさまにする。植民地化の過程では前者(歴史社会)は後者(未開社会)の歴史を囲み取り….このあと未開社会は歴史社会から課せられたご加護(bénédiction)への道程をとらされるのだが。

人類学者らしきレヴィストロースの述懐が入る。

(それ=植民地化=によって)信条、信仰、風習の豊かさと多様性が失われた。人はもう忘れているが幾百、幾千もの社会が共存していた。それらは人類がこの世界に出現して以来連綿と継続してきたのだ。

« en elle (apparition出現、訳者注) fit-elle réduite à une petite bande nomade ou un hameau perdu au cœur des forêts – se condensent tout le sens et la dignité dont est susceptible la vie humaine » (297)

人類の現れの様は移動を続ける小さな集団(バンド)、あるいは森の奥深くに隠れる一つだけの村落にまで縮小されていたかもしれない。そこには生きる指針(sens)、そして人間として重要な尊厳(dignité)がすでに具わっていた(ここに至るための安定した精神性 « mentalité »がすでに具有されていた、と前文にある)。 ­

 

« que ce soit chez elles ou chez nous, il faut beaucoup de naïveté pour croire que l’homme est tout entière refugié dans un seul des modes historiques ou géométriques de son être , alors que la vérité de l’homme réside dans le système de leurs différences et de leurs communes propriétés »(同)

森の奥深くであろうと我々(西欧)であろうと、人が己の存在を、数々あるはずの歴史的可能性、あるいは地理的候補地の中で、ただ一の選択肢に逃げ込んでいると考えるには、よほどの幼児的信じやすさ(naïveté)を持たなければならない。なぜなら人の真実とは人類全員が同質性向を持つに加え、(民族、習俗などの)違いを受け入れる体系にあるのだから。

訳注:歴史的可能性を一つにしてしまうとは、「弁証法」の単方向進展を揶揄する、人の歴史は共産化へ向かうと決めつける狭量に他ならない。世界の地理的分布では狭隘な西欧のみが文明を誇るとする、サルトルの傲岸を信じやすさ(naïveté) だと諌める一文です。













 

自宅アパルトマンで
くつろぐサルトル
 
デカルトは
近代思考の基
礎を形成した
 

次節で原点1(理性論)を再燃させる。

原点1の趣旨は「実存主義で展開した理性獲得(=自由になる)をヘーゲル弁証法に移植した」とした。その部分を調べよう。

« Qui commence par s’installer dans les prétendues évidences du moi n’en sort plus » (297)それが在るはずとする「自我」に安住する者はそこから抜け出せない。

 « La connaissance des hommes semble parfois plus facile à ceux qui se laissent prendre au piège de l’identité personnelle. Mais ils se ferment ainsi la porte de la connaissance de l’homme : toute recherche ethnographique a son principe dans des « confessions » écrites ou inavouées. En fait Sartre devient captif de son Cogito » (297)

 

訳の前に:複数型の人hommesと単数の人としての個性identité personnelleが使い分けられる。複数は「人類」、単数(個性)を個人が理性を獲得する様態(サルトルの言う実存主義)と捉える。Confessionsは換喩、何事かを告知する内容、「伝えかけ、メッセージ」と理解する。民族誌学では先住民を調査対象とするが、彼らの伝えかけである。これを趣旨と拾い、

意訳で挑戦する:

人類を語る事とは、人が各自に理性を獲得する、こんな罠に落ち込んだ者には、易しいかもしれない。なぜって個人性を語って「人性」としているから。しかしその説明では人類を説明出来ない。民族誌学は族民ら「訴えかけ」であり、それらを文書に編集して伝えるという使命を持つ。一方(個性から出発している)サルトルは(人々を語らず、自身の理解を伝えるのみ)cogitoの俘囚となりはてた。

Cogitoはデカルトの言葉「我考える」。宇宙に展開する我の仕組みをデカルトは持つ。サルトルの我はen sociologisant le Cogito Sartre change de prison. Cogitoを社会化しながら住処の牢獄を換えただけ-辛辣な語を当てている。

知を考える人の根底に共に置くのだけれど、「個」の知に拘るサルトルは「知の監獄」に入っていると揶揄した。論調は続く、

 « Descartes, qui voulait fonder une physique, coupait l’Homme de la Société. Sartre, qui prétend fonder une anthropologie, coupe sa société des autres sociétés. Retranché dans l’individualisme et dans l’empirisme, un Cogito – qui veut être naïf et bru – se perd dans les impasses de la psychologie sociale. Car il est frappant que les situations à partir desquelles Sartre cherche à dégager les conditions formelles de la réalité sociale : grève, combat de boxe, match de football…soient toute des incidences secondaires de la vie en sociétés ; elles ne peuvent donc servir à dégager ses fondements » (298)

訳:デカルトは人間を社会から分け、物理学を確立しようとした。サルトルは何をしたか、己の社会(西欧)を他社会から分断し人類学を確立したと言い張るが、それはただの一種の人類学にすぎない。愚直で荒々しい己のCogito(知)を個人主義、経験主義に移植すると試みたあげく、社会心理学の袋小路に迷い込んでしまった。なぜなら、彼が社会の真実と数えあげる例とは、驚いてしまうのだが、ストライキ、ボクシング試合、サッカー試合などだがそれらは社会生活の2次活動(incidences secondaires)でしかない。2次故にそれらを集めても生活を形作る根底を引き出す事にはならない。

 

引用文の意味を考える;デカルトが物理学を探ると:

個が知を持つ、知を通して物質の中味(本質)は何かを探る目的を持つ。これをして「物理学の一つune physique」と性格づけた。サルトルにしても個が知を獲得する過程はあるが、それは経験主義でしかない。サルトルが挙げる「ストライキ、ボクシングなど」は共産社会につながる起因であるが、それらをして弁証法的発展であるを否定している。

(デカルト引用はさらりとしているが、彼は実質を属性分解して本質に迫る、近代科学の基礎となる考え方を喧伝した)

 

サルトル批判は続く、

« Pour l’ethnologue , cette axiomatique si éloignée de la sienne est d’autant plus décevante qu’il se sent très près de Sartre, chaque fois que celui-ci s’applique, avec un art incomparable, à saisir dans son mouvement dialectique une expérience sociale actuelle ou ancienne, mais intérieure à notre culture » ()

一民族学者(レヴィストロースのこと)はこの公式化は自身が温める説とは大違いで、がっかりしてしまう。サルトルの著作に接すると、彼は表現力を駆使し社会体験、それは今の世の事でもあるし昔の記録もある、それらを持ち前の手練れで弁証法に取り込んでしまう。しかし常にそれら体験は我々(西欧)内側の物でしかない。

 

次の文にtotalisation統括が出る。

 « l’exigence de totalisation soit une grande nouveauté »(幾人かの歴史家、社会学徒、心理学者には)統括化の脅迫の考え方は新鮮に映っているはずだ。

Totalisationが出現したが文脈において唐突ではない。前文の<apercevoir une époque où une culture comme un ensemble signifiant> と重ねて理解しよう。時代あるいは文化を、意味を持つもの(思想)として覚知する、この理性活動が統括であるとして、

以下の文が意味を持つもの、この内容を説明する。それは(民族学者の全員が)文化とは「構成員自身の基盤、時間的位置、そして自立の意味を知る集合体」として捉える。こうした集合体を解析する民族学の理論をtotalisationとする。それは「全ての民族学」で実践されていた。

 « pour les ethnologues, elle va de soi, depuis Malinowski qui la leur enseignée » 民族学者は全員がその(elleculture文化を指す)自律性に気づいていた。マリノフスキーの学説が他学問分野に影響を与えていた頃から統括化の概念を民族学はすでに取り入れていたのだ。

 

 
 機能主義とはモノ(社会の規則など)にまつわる機能を探る。すなわちモノをモノとして見る。「目は人間のマナコなり」柳亭痴楽、これを学にしている。   ブロニスワフ・マリノフスキー(1884ポーランド~1942アメリカ)。<文化を、相互に関係して働いている諸要素の集合体として捉え、それら諸要素が文化形成に及ぼす機能を分析する手法>(Wikipedia

トロブリアンド諸島で実行される贈り物慣習「クラ」に注目した。単なる慣習と見るだけに終わらず、社会を支える機能を有する柱とした。1 文化を諸要素に分け、文化自己認識(identité)形成を担うとする分析思考。2 自己認識の実態像を画く統括(totalisation弁証法)思考。

一方;

« les insuffisances de Malinowski nous ont appris que là n’était pas la fin de l’explication ; celle-ci commence seulement quand nous sommes parvenus à constituer notre objet » 298頁)マリノフキー説に不足(insuffisances)している面から我々は以下を学べる。説明がそこで終わるのではない。我ら自身の目的を探るに至って後に、説明が始まるのだ。

« Le rôle de la raison dialectique est de mettre les sciences humaines en possession d’une réalité qu’elle est seule capable de leur fournir, mais que l’effort proprement scientifique consiste à décomposer, puis recomposer suivant un autre plan »298頁)

訳:弁証法の本来理性は人間科学にとある現実を所有させる役割を持つ。弁証法のみが人間科学に一の現実(une réalité)を与えられるのである。なぜならば(mais)科学の本来的努力とは、物事を分解(=分析手法)し、分解をもっぱらとするその思考とは別の理念(弁証法理性)で再結合する処にある。 

2の引用文をまとめると;

1マリノフスキ機能民族学の誤りは「機能の解析を最終目的とした」点に限界が認められる。その機能(思想)を解明してから文化の解釈が始まるのだ。2科学本来の理性は「分析」であり、引用文にある「分解し再結合」に当てはまる。その理性作業とは別系統の理性(un autre plan)があって、それによって「とある現実」を統合し、科学全般にその所有者たらしめる。

マリノフスキーはモノをモノに託して語りそこで止まった。ここが不足(insuffisances)とされた。

このようにレヴィストロースが語る「彼のdialectique」とはカントが主唱する弁証法である。本投稿一回目にその解説を入れている。

訴えたかった事情とは、サルトルはモノ「実体」で描く世界観を語る。レヴィストロースはモノを語らない、思想を語る。その差異を説明したかったから。

 
   

サルトル批判に戻る;

« A force de faire la raison analytique une anti-compréhension, Sartre en vient souvent à lui refuser toute réalité comme partie intégrante de l’objet de compréhension. Ce paralogisme est déjà apparent dans sa façon d’invoquer une histoire dont on a du mal à découvrir si cette histoire que font les hommes sans le savoir ; ou l’histoire des hommes telle que les historiens la font, en sachant ; ou enfin l’interprétation, par le philosophe, de l’histoire des historiens » 299頁)

分析理性なるは事象理解に至らない思考とするに急ぐあまり、サルトルは理解対象物と現実をすっかり引き裂いてしまった。この誤謬推理(paralogisme)は歴史についての彼の語り口にもあからさまに聞こえる。それの言い分は全く理解し難いとなっている。それと気付かずに人々が創っている歴史なのか、承知しながら説明する歴史家の歴史なのか、歴史家の歴史を自己流に解釈する哲学者の歴史なのか、いずれかを判定するは困難である。

 

原点の12の理性論と歴史観、それらのサルトル内部での跛行を述べている。サルトルの弁証法理性を歴史に適用すると;ストライキ、バス停車場などでの直接行動が人々の弁証法理性の発露であるとする。しかしそれは<理解する対象物と現実をすっかり引き裂いている>に過ぎない。対象物とは地理的、経時的に独立している事柄(=anecdote挿話、前出)であり、それを理解するとは意図 « intention »と原則 « principe »を生活の律動 « rythme »の中で解釈しなければならない。

この対称物と現実を捻じ曲げている誤謬は、彼の世界観(歴史)でも見て取れる。その誤りの3通りを羅列する。すなわち<enfin l’interprétation, par le philosophe, de l’histoire des historiens歴史を自己流に解釈する哲学者(サルトル)の歴史>である。

勝手解釈(誤謬)をゴリ押しするサルトルの歴史であると。

 

« Il croit que son effort de compréhension n’a de chance d’aboutir qu’à la condition d’être dialectique ; et il a tort que le rapport, à la pensée indigène, de la connaissance qu’il en a est celui d’une dialectique constitué à une dialectique constituante, reprenant ainsi à son compte, par un détour imprévu, toutes les illusions des théoriciens de la mentalité primitive » (同)

彼(サルトル)は己の理解とは弁証法的でなければ進められないと信ずるに至った。そして先住民の思考と己が組み立てた知識との関係を説明するに誤った。それは構成されている弁証法(constituée、これが先住民の短周回弁証法で発展しない)と構成を担う弁証法(constituante、彼自身が組み上げた弁証法)という対比に思いついたが、それは先住民の思考方法を幻想しながら解釈する理論家の説を寄せ集めた物に過ぎない。

 

先住民社会は短周回(ショートサイクル)の弁証法歴史しか持たない(=前出)の出どころは「構成されてしまっている弁証法」(原住民)対「構成を取り込む弁証法」(西洋人)にたどり着いた。空論と感じる。

« Que le sauvage possède des connaissances complexes et soit capable d’analyse et de démonstration lui parait moins supportable encore qu’a un Revy-Brühl »

先住民には複雑思考を持ち、分析は達者で説明も明確にできるという事実は、彼(サルトル)にとって、あのレビブリュールとやらよりも受け入れがたかった。

名前にun不定冠詞を被せるのは「軽蔑」の意味が含まれる。レヴィストロースがレビブリュールをいかに判定しているかを語る。

 

引用の最後は原点3番めの未開文明論について。

前文でDeacon(民族誌学)のAmbrym族の報告を紹介している。彼の求めに応じた先住民が砂の上に婚姻制度の仕組みを堂々と、淀みもなく書き上げた事情について

« Sartre affirmeil va de soi que cette construction n’est pas une pensée : c’est un travail manuel contrôlé par une connaissance synthétique qu’il n’exprime pas » 299頁)

訳:(先住民の説明ぶりは)思考から発したものではないとは明確だ。彼はそれが何かを表出しないが、総合した一つの知識に統制された作業で、手仕事である。

レヴィストロースはこの分析を否定する。

« Soit : mais alors, il faudra en dire autant du professeur à l’École Polytechnique faisant une démonstration au tableau, car chaque ethnographe capable de compréhension dialectique est intimement persuadé que la situation est exactement la même dans les deux cas »299頁)

それならば理工科学院の教授の行動を持ち出さなければならない。黒板に向かって説明を滞りなく書き上げる。弁証法とは何かを知る民族誌学者にしても、両者(Ambym族民と教授)の行為は全く同じと心の内で思っている。

先住民の長老、最高学府教授ともに頭にまとめる「思想」を図式で表現している。思想とは彼らが具体的に見ている「現実réalité」を理念化した表象に他ならない。この比較は説得力が強い、社会科学系文に幾度か、前向きに引用されている。

 

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判 了 (2023930日)

 
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