| 部族民通信ホームページ 投稿2023é年10月15日 開設元年6月10日 |
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| VarianFry ユダヤ人救出作戦 | |||||||||
![]() 救出された面々 右からFry,Breton, Serge,マーラー夫人 Ernst(シュールに 上から覗き込む) ネットから採取 |
悲しき熱帯番外投稿
(第二次世界大戦、ナチスドイツはフランスを攻略しフランス本土に進駐する1940年6月)「レヴィストロースは除隊しモンペリエに戻った。ユダヤ系で知識階層、占領下では拘束される怖れが多大に残る。悩むレヴィストロースにアメリカの社会人類学者(Robert H Lowie)から「社会研究の新しい学校」への参加招聘状が届いた。ロックフェラー財団が進めている「ナチスドイツ占領による迫害から著名人を救済するプログラム」に選ばれたのである」(以上は悲しき熱帯の別投稿) しかし、どうやってフランス(ヴィッシー政府)を脱出するか。かつてのよしみ、在ヴィッシーブラジル大使館にビザ発給を申請した。大使に面会の運びとなって旧知を温めビザ発給に進み、 « Pendant quelques secondes le bras resta en air. D’un regard anxieux, presque suppliant, l’ambassadeur tenta d’obtenir de son collaborateur qu’il détournât la tête tandis que le tampon s’abaisserait, me permettant ainsi quitter la France … » (18頁)、公印を押そうと腕を振り上げた大使、その腕は数秒の間宙に止まった。大使は書記官に不安の眼差しをなげ、脇に控えていた書記官が耳打ちした。パスポート余白に落ちるはずの公印が脇に流れ、ブラジル行きは泡と消えた。公印がパスポートに押されていたなら、私をフランスから出させてくれる筈だった… マルセイユからマルチニク(カリブ海アンティーユ島、フランス海外県)に出航する便があると聞きつけた。(偶然にうわさ話を聞いた風で語られる)とりあえずは文面通りに紹介を続ける。 ナチスの締め付けが海外県への定期便の乗客規制にまで及んでいなかったのだろう。本土から海外県に渡るとは、東京から大島に旅すると変わりない。査証は必要なし。カリブ海はアメリカの勢力圏なのでマルチニクにはナチス統治が及んでいない。この船に乗りさえすればナチスから逃れられる。一方、ユダヤ系でヨーロッパ脱出希望者は多い。出港は一隻、この便が最後となるだろう。船会社の計らいで収容限度を大きく越しての乗船が許可された(語り口を読む限りこうした筋書きになる)。 レヴィストロースは最後の望み(Capitaine Paul-Le merle)に乗り込めた。乗客の多くがユダヤ人。 船は本土と海外県との定期運行を担うパクボpaquebotである。郵便貨物を運ぶために建造されている。乗客用にはキャビネットが2室、それぞれが男女に分けて、男、女同士の相部屋。その定員は7、男が4なら女は3。350人が乗りこんだ。急ごしらえ、雑魚寝窓なしの船底には幸運な7人を除く340人余が押し込められた。(paquebot意味はクルーザー大型の客船だが、かつては貨物郵便定期船でせいぜい2000トン) レヴィストロースは7人に選ばれ、キャビネットに潜り込めた。この特例待遇の背景とは船会社に「ブラジル行き帰りで幾度か乗船していた得意だったから」と慎み深く語るが信じ難い。イニシャルのみM.Bと記述される人に世話になったとさらり流した。そのBなる救いの神が誰かは特定できない。 同室4人男の描写に幾行か費やす。オーストリア人金属商(フランス人を押しのけて乗船なら相当な情報を仕込んでいる筈の注釈、ウラン鉱山の知識かも)、ユダヤ人らしからぬ謎の北アフリカ人は「鞄valiseにDegasの一幅が納まっている、これをもってニューヨークに行って一日滞在してフランスに戻る」と主張している。戦争の最中に名画の密輸、何やらいわくがありそうだ。(このモロッコ人の正体はネットFrance Cultureで暴かれた) 船の上での衛生状況、朝夕のトイレットの仕組み、女と男、人々の精神状態にも詳しい。 Victor George(スターリンと対立したトロッキィ派の共産党員、追放された)André Breton(作家シュールレアリスト)との邂逅の様子も語られる。船上のGeorgeについて « son passé de compagnon de Lénine m’intimidait en même temps que j’éprouvais la plus grande difficulté à l’intégrer sa personnalité, qui évoquait plutôt une vieille demoiselle » (20頁)レーニンと同胞だった過去を知るから、彼に声を掛けるを戸惑う。同時に、その武勇譚と人となりを重ねるには苦労がいった。未婚老女かと見違えるほどか細い風貌と立ち振る舞いを見せていた。 米国亡命は果たしたが追われ1947年にメキシコで死ぬ(Wikiによる) Bretonの様子 « La racaille, comme disaient les gendarmes, André Breton, fort mal à l’aise sur cette galère, déambulait de long en large sur rares espaces vides du pont, il semble à un ours bleu » (20頁)(乗船時に乗り込み客を一般から隔離していた)憲兵警察の誰からも屑やろうとののしられたBretonはこの徒刑船の境遇になじめず、船橋のわずかばかりの隙間を、縦に横に歩き回る姿が青い熊に見えた。 ユダヤ人の生き残り作戦とはヨーロッパを離れるのみ。 受け入れる側アメリカ、カナダは亡命受け入れ基準を、それぞれの思惑で作成していた。普通市民、取り立てて技能、業績もないユダヤ人には拒否を貫いた。セントルイス号事件が例にあげられる。乗客900人のユダヤ人がビザを持たずにアムステルダムから同号で出国した。キューバ上陸の許可は得ていたが、上陸する直前に入国を拒否された。アメリカカナダに回航したけれど拒否された。結局が欧州に戻った。 一方で「この人なら」歓迎する「選良」も設定されていた。 |
![]() ヴァリアンフライVarianFry |
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![]() マルセイユの目抜き通りを闊歩するVarianFry。1940年10月、アメリカとドイツは交戦していなかった。1941年12月、米国の対ドイツ宣戦布告によりヴィシー政権に拘束され強制送還された。写真は米国ホロコーストセンターHPから採取 |
学術芸術に分野を絞り業績を上げている若手を受け入れる。レヴィストロースはこの選に入った。世界的著名人や卓越した芸術家には歓待で迎える。アインシュタイン、ハイフェッツはその範疇に当たる。 なぜレヴィストロースは逃避の「非熱帯」の旅を「悲しき熱帯」でかくも詳細に語ったのか。 出版年は1955年、戦後10年たった。戦中の5年が記憶に重い。この期間の出来事とは休戦armistice、実は敗戦(大文字で始まるArmistice一次大戦で勝った時の休戦、負け休戦は小文字)、フランス軍は戦わず兵士は除隊、無防備都市宣言パリの無血解城。戦中の5年が屈辱でした。今も誰も多くを語らない。 この個人的困難な状況を歴史の一断片に残すべく、レヴィストロースは己通して困難を語った。 本文に綴られるフランス脱出は、文章のその意味通りに理解して「偶然に船に乗れた」運が良いうえ機会も揃ったを伺わせています。実際は ; 「ナチス拘束のおそれあるユダヤ人救済」を目的に1940年8月から13ヶ月、Capitane Paul Le merle号はアメリカ人Variant Fryにチャーターされていた。ジャーナリストとして地位を確立していた彼は、ナチスのユダヤ迫害の風聞に接し、さらに亡命者から実際を聞くにつけ、同胞への迫害に心を痛めた。マルセイユに乗り込み、米国の対独最後通牒まで(1941年12月)救済活動を広げた。 米国ホロコーストミュージアムの記載で1940~41年、複数の航海を敢行し2000人のユダヤ人亡命者を救助したとある。 |
![]() ユダヤ人を2000人ほど救済した Capitaine Paul le Merle パクボ(郵便貨物船) |
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| With that in mind, in August 1940, Fry, a Protestant and 32-year-old, went to Marseilles to begin a covert rescue operation that during his 13-month stay would result in the escape of more than 2,000 people, among them many artists and intellectuals, including Marc Chagall, Hannah Arendt, Max Ernst, Heinrich Mann, Marcel Duchamp, André Breton, Jacques Lipchitz and Alma Mahler, who crossed the Pyrenees carrying Gustav Mahler’s Symphony No. 10, her former husband’s final composition. (Varian Fry’s Bravery to Save Jews,ニューヨークタイムズネット版) | |||||||||
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原文の英語の訳文は控えます。 救済した名前に我らがレヴィストロースは入っていないのは単なる間違いです。面々がすごい。シャガール、アーレント、エルンスト、マン、マーラー(妻)…(ブルトンは前述)。その後の活躍をうかがい知るに、脱出できずナチスに彼らが拘束されたら、戦後の文化の様相が変わったかもと感慨を抱く次第です。 幾つかの疑問; 1 レヴィストロースは休戦(1940年6月)で除隊となってモンペリエに戻った8月にチャーター船(LeMerle丸)が最初の出航なので乗り込んだ。(前回の投稿は「これが最後の出航」とレヴィストロースは焦ったとしたが、この記述は実際と反している) 2 幾回も続く脱出手助けの出航、その第一回目で特待乗船(キャビンのベッド寝泊まり)。この厚遇の経緯の背景を彼は語らない。さらにはVarian Fryセンターについても語らない。Fryに査問、あるいは面会を受けているはず(なぜなら彼のチャーター船だから)。 レヴィストロースに限らず救済された諸氏はVarian Fryセンターについて語っていない。アメリカは亡命者を選ぶ、命を選んでいる。セントルイス号(乗客900一般ユダヤ人)のアメリカ亡命に反対していたのはユダヤ系のオピニオンリーダー達であったと聞く(書籍・ストロベリーデイズより)。 注)鞄にモネ一幅を隠しニューヨークに渡る謎の北アフリカ人はアンリ・スマジャ、後に「コンパ」誌を買収したチュニジア人、France Culture。 |
![]() 同船したVictorSerge トロツキー派として スターリンに追われ、メキシコに たどり着くが暗殺される (1947年、出身はベルギー) |
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