| 3人の有力者が執行者に指名された。その一人がエチエンヌ・シュバリエ、後に(1455年)アニエスと己の肖像画を2双一幅の祭壇絵としてフーケに依頼した人物である。
幾つかの疑念にはとりあえず、この画は聖母子の形式を踏襲するが聖母子像としてフーケはあて完成させなかったーとしよう。
では未完成の聖母子像に何を残そうとしたのか。妄想にはいる;
描かれた死骸である。アニエスの遺言執行者の一人エチエンヌ・シュバリエ(Etienne Chevalier,シャルル7世の財務官1410~1474年)がフーケにソレル肖像を依頼した。フーケがアニエス・ソレルをつぶさに眼にしたのは5年の前、それはソレルの死骸で彼女の最後の肢体であった。その様のまま母子像にした。泰西画で母子像とは聖母子に他ならないから、彼も伝統に倣って聖母子に仕上げたが、形式だけを画に残した。画家精神は対象の真実を伝えるに他ならないから、死骸の様さらには死因を憶測させるまでを画面に残したである。
さて、話は現代。シャルリエはアニエスのミイラ化した死体を取り出し、分析し死因を特定した。その経緯は;
遺体はアニエスを待つシャルルに届けられた。シャルルはアニエスの心臓を切り出すよう命じた、すなわちここで左胸がはだけた。遺体には王族、貴顕が受ける防腐術が施された。シャルリエはその手順を、記録に残るベリー公の埋葬から引用する。「心臓を取り出し、次に内臓を抜き取った。閣下のお体を空にした。内臓は直ちに墓地に埋葬された。腹腔には空豆に粉、オリバン、ミルラ、乳香…を詰めた」防腐と異臭防止の薬石がおおよそ20ほど語られる。アニエスも腹腔は空にされ、ベリー公に劣らない処置を施されたと思える。
貴顕遺骸に防腐処置する目的は展示である。ベリー公の場合はパリからブールジュまで6日間をかけている。旅程の先々で遺骸は公開された。
アニエスの遺骸はジュミエージェから、旅程は往路に同様10日をかけロシュに戻った。ロッシュ、ノートルダム教会の内陣に入り口に埋葬された(儀典を伴う葬儀を=ensevelir=とし邦訳は埋葬とするが、この場合には地中に埋めるのではない。石棺は教会陣内に置かれる。内陣には王族貴族の石棺が納められる。ナポレオンの石棺もアンバリッドに見られる)
宿泊の度に「展示」される。これが当時の風習だとされる。公開する理由は「本当に死んでいる」を示すため。後継に伴う軋轢を未然に防ぐ目的とする。シャルリエは「頭のみ」もあるとするが原則は全身を公開する。
アニエスの左胸は、心臓を抜き取った後を示すから、はだけたまま、(3人の娘に続き)4人目が産まれた証として死産の子を横に置いた死骸が、まずJumieges城館で公開された。取り巻きの貴族などが実見聞し、その一人にフーケがいた。
彼は宮廷付き絵師であるから、アニエスの遺体を間近にしているはずだ。心臓を取り出すために左胸が開かれた、内蔵を取り出した腹腔、防腐薬を詰め込んだにしてもあり得ないほどの細腰のアニエスを目にしていると推測する。脇にはアニエスの証でもある死産の子が置かれていただろう。
アニエスの墓はその後、ノートルダム教会側がアニエスは王族でない、教会の内陣に石棺を置く身分には価しないと言い出しサン・トウルス参事会教会に改葬された(石棺を移送)。大革命で石棺は破壊された。骨壺(入れるのはお骨ではない。防腐処置されている遺骸を折りたたみ重ね入れる。骨壺、3重の木棺、石棺、アラバスターの横臥像(死姿)を装飾に置く)はロシュ王館の墓所に埋葬された(地中に埋めた)。2004年に、改修を受けていた石棺、横臥像が骨壺と共に本来の居場所の参事会教会に安置される事となった。
王館墓所から掘り上げられた骨壺は開封され、シャルリエらが調査した。同書「死体が語る歴史」から引用する。
「壺の中には白い破片層の上に一つの頭蓋骨が置かれていた。沈着物に被われた大きな眼球がこちらをじっと見つめていた。頭蓋骨とするよりもミイラになった頭そのもの」(19頁)
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