部族民通信ホームページ   投稿2023年10月15日  開設元年6月10日
主宰蕃神(ハカミ)義男        部族民通信  ホームページに   読み物のページに  
ムランの聖母子は死の母子像  
   

名画「ムランの聖母子 ≪ Diptyque de Melun ≫」フランス宮廷画家ジャン・フーケ(Jean Fouquet1420~1481年)の作。王シャルル7世(1403~1461年)の愛妾アニエス・ソレル(Agnes Sorel,1422~1450年)と子の肖像とされる。不気味な雰囲気の画趣に関わらず、なぜ聖母子像と呼ばれるのか、その伝えに疑問を抱き、さらに「生きる人」肖像だろうかと部族民(蕃神)は頭をヒネる ;

1      聖母子は西洋絵画での主要な主題で著名作家はかならず作品を残す、母子の一体感を強調させている。この一体感が主題なのである。 聖母子に託す訴えが神と人との繋がり、しかしこの母子像は明らかにこの主題から逃げている。

2      母が眼を伏し、母を見上げず前方に投げる子の眼差しは鋭い。指差す先の対象は見えていない(画を双に組むとEtienne Chevalierに向かう)。背筋を伸ばして座る姿勢は幼子らしからぬ。彼が座すは母の膝ではない、布の折り重ねらしきに乗る子を支える母の手は、子の重さを支える腕の力が見えていない。母子の視線、心の置き様に中心軸は重ならない、母子には感情交流がない。

3      画像全体に広がる陰気さ、後背にキリスト誕生を祝福する天使達を配すも不機嫌な視線を空に向ける。他の聖母子像では取り囲む天使の祝福の仕草のみならず、神が上方に出現して「児は救世主なる」と教えるなど画角の全体が明るい。

4      アニエス風情が異様である。肌は白をまして青い、一筋の皺も走らせず肌の表の膨れる様は健康と言い難い。右の乳房を晒すけれど膨れるままがなまめしくは見えない。見よがしに乳を露出する聖母像を他に知らない。

5      胴回りは異常に細い、この細さでは内臓を収容しない。内臓を抜いていると描いているのか。

6      アニエスの纏う布は白無地、亜麻布であろう、小筆の推測もここから出ている(亜麻布 ≪ linceul ≫ は屍衣)。

参考にムリーリオ(バロック期の画家1617~82スペインセヴィーリア)の聖母子。天から見下ろす神、周囲には祝福を告げる天使。マリアとキリスト、エリザベートと洗礼者ヨハネ(キリストの半年前、夏至に生まれた。母エリザベートは老齢=子を身ごもる環境にない=ながら神のお告げでヨハネを生む)。そして神の使いの子羊。スペイン式てんこ盛りの聖母子です

 

ムランの聖母子と呼ばれるクリック拡大






死衣Lenceulは
亜麻布
   

アニエスの最後の行動から「聖母子像」いかに描かれたかを探る。

1450年、国王(シャルル7世)暗殺計画を知ったアニエスは、居城のロッシュ(LochesIndre et Loire県、Toursの約47キロ南東)を出て、シャルルが滞在しているジュミエージェJumiegesNormandieSeine Maritime県)に向かった。出立の2月初は厳冬、旅程は厳しさを増すが、アニエスが雪解けを待てない事情は仏英百年戦争の切迫した動静があったから。シャルルが同地に滞留していた目的はイングランド軍の集結地であるノルマンディを攻略するためである。冬期に戦闘は始まらないから春までの籠城、雪解けを待つ間の行軍準備であった。(シャルルは50年秋までにノルマンディを平定し1453年の百年戦争終結の足がかりを作った)

暗殺者は当然、春の行軍前に暗殺を実行するだろう。

両処の距離はネット地図で目計算すると150キロ+となろうか。ほぼ10日をかけて、29日に Mesnil sous Jumiegesに辿り着いた。その名(Jumiegesの下の町Mesnil)通り、シャルルの居城には唇歯の距離。居城を仰ぎ見る一屋でコト切れた。

死体が語る歴史(シャルリエ著、河出書房新社刊)からアニエス死の状況を見ると、

「疲れ果てたアニエスは赤ん坊を産み落とすが、子はまもなく死んでしまった(名前が歴史に記されないとは洗礼を受けなかった。これが死産もしくは分娩後すぐに死んだとの根拠。性別も知られない=小筆注)。程なくして「腹下し」に見舞われた。肛門あるいはヴァギナから物質が流れ出たのである。赤痢だったか、産褥熱だったか。毒を盛られたに違いないとの噂が流れた。死が近いと悟りアニエスは遺言執行者を指名した」(同書14頁)

 

ラファエロ聖母子像、聖母は
衆生に救いの眼差しを向ける


  3人の有力者が執行者に指名された。その一人がエチエンヌ・シュバリエ、後に(1455年)アニエスと己の肖像画を2双一幅の祭壇絵としてフーケに依頼した人物である。

 

幾つかの疑念にはとりあえず、この画は聖母子の形式を踏襲するが聖母子像としてフーケはあて完成させなかったーとしよう。

では未完成の聖母子像に何を残そうとしたのか。妄想にはいる;

描かれた死骸である。アニエスの遺言執行者の一人エチエンヌ・シュバリエ(Etienne Chevalier,シャルル7世の財務官1410~1474年)がフーケにソレル肖像を依頼した。フーケがアニエス・ソレルをつぶさに眼にしたのは5年の前、それはソレルの死骸で彼女の最後の肢体であった。その様のまま母子像にした。泰西画で母子像とは聖母子に他ならないから、彼も伝統に倣って聖母子に仕上げたが、形式だけを画に残した。画家精神は対象の真実を伝えるに他ならないから、死骸の様さらには死因を憶測させるまでを画面に残したである。

さて、話は現代。シャルリエはアニエスのミイラ化した死体を取り出し、分析し死因を特定した。その経緯は;

遺体はアニエスを待つシャルルに届けられた。シャルルはアニエスの心臓を切り出すよう命じた、すなわちここで左胸がはだけた。遺体には王族、貴顕が受ける防腐術が施された。シャルリエはその手順を、記録に残るベリー公の埋葬から引用する。「心臓を取り出し、次に内臓を抜き取った。閣下のお体を空にした。内臓は直ちに墓地に埋葬された。腹腔には空豆に粉、オリバン、ミルラ、乳香を詰めた」防腐と異臭防止の薬石がおおよそ20ほど語られる。アニエスも腹腔は空にされ、ベリー公に劣らない処置を施されたと思える。

貴顕遺骸に防腐処置する目的は展示である。ベリー公の場合はパリからブールジュまで6日間をかけている。旅程の先々で遺骸は公開された。

アニエスの遺骸はジュミエージェから、旅程は往路に同様10日をかけロシュに戻った。ロッシュ、ノートルダム教会の内陣に入り口に埋葬された(儀典を伴う葬儀を=ensevelir=とし邦訳は埋葬とするが、この場合には地中に埋めるのではない。石棺は教会陣内に置かれる。内陣には王族貴族の石棺が納められる。ナポレオンの石棺もアンバリッドに見られる)

宿泊の度に「展示」される。これが当時の風習だとされる。公開する理由は「本当に死んでいる」を示すため。後継に伴う軋轢を未然に防ぐ目的とする。シャルリエは「頭のみ」もあるとするが原則は全身を公開する。

アニエスの左胸は、心臓を抜き取った後を示すから、はだけたまま、(3人の娘に続き)4人目が産まれた証として死産の子を横に置いた死骸が、まずJumieges城館で公開された。取り巻きの貴族などが実見聞し、その一人にフーケがいた。

彼は宮廷付き絵師であるから、アニエスの遺体を間近にしているはずだ。心臓を取り出すために左胸が開かれた、内蔵を取り出した腹腔、防腐薬を詰め込んだにしてもあり得ないほどの細腰のアニエスを目にしていると推測する。脇にはアニエスの証でもある死産の子が置かれていただろう。

アニエスの墓はその後、ノートルダム教会側がアニエスは王族でない、教会の内陣に石棺を置く身分には価しないと言い出しサン・トウルス参事会教会に改葬された(石棺を移送)。大革命で石棺は破壊された。骨壺(入れるのはお骨ではない。防腐処置されている遺骸を折りたたみ重ね入れる。骨壺、3重の木棺、石棺、アラバスターの横臥像(死姿)を装飾に置く)はロシュ王館の墓所に埋葬された(地中に埋めた)。2004年に、改修を受けていた石棺、横臥像が骨壺と共に本来の居場所の参事会教会に安置される事となった。

王館墓所から掘り上げられた骨壺は開封され、シャルリエらが調査した。同書「死体が語る歴史」から引用する。

「壺の中には白い破片層の上に一つの頭蓋骨が置かれていた。沈着物に被われた大きな眼球がこちらをじっと見つめていた。頭蓋骨とするよりもミイラになった頭そのもの」(19)


シャルル7世


















 

日本の聖母子像蒼騎会成田ふみ
個人蔵 クリック拡大











   

肖像画を描くフーケはそれを見るをあたわず、450年の後、墓を暴いた病理学者が覗いて見返されたアニエスの目は大きかった。他にも重要な発見があった。7ヶ月の胎児の骨格の名残(脊椎、頭蓋の断片)であった(26頁)。断片の頭蓋が、これがアニエスがMesnil sous Jumiegesで産み落とした胎児である。DNA検査を施さなかったから、胎児の性別は明らかにされていない。洗礼を受けずに死んだ子は「人」にならずに消えただけで、名前も与えられず教会過去帳にも記録されない。

言い伝えでは女児であったとも。

しかし男児であったと小筆は解釈する。ムラン聖母子像はアニエスと死産となった子の像であり、アニエスが抱いているのは男児であるからこのように推察をした。

シャルリエ等の関心事はアニエスの死因であった。毒殺の噂が死の直後から語り継がれてきたからである。結果は;多量の水銀が主に下半身に付着していた。さらに多量の回虫卵が見つかった。アニエスは回虫症に悩まされていた。アニエスにも回虫下し水銀が処置されていたのだが、致死量を超える水銀を投与されたとの分析結果が出た。シャルリエは「治療の際に用量をうっかり誤ったか、まさしく殺害されたか」いずれかとするだけ。しかし明白な状況が本書に記載されている;

以前から水銀投与を受けていた。ロシュを出てジュミエージェに向かった旅には政治が絡んでいた。「シャルル7世の毒殺謀議が進んでいると伝える」は当時の憶測であり、厳冬の旅程を組んだ背景はそれを窺わせる。出立してまもなく不調、頻繁な下痢(本文では腹下しとある)に悩まされた。そしてメニルスージュミエージェ(Mesnil sous Jumiege、ジュミエージェの下の街メニル)に辿り着いて、シャルルに明日に会えるその晩に早産し、下半身からの吐出で死亡した。

状況を勘ぐれば、ロシュ王館では体調は悪くなった。シャルルに重要事を告げると出立した途端、腹下しに見舞われ、最後の夜に大量の水銀を投与されて死んだとなる。医師ポワトバンが同行していた。彼が回虫下しを処方しただろう。王の主治医ならば最高の医師である、どの程度の量を越したら悪さする程度の初歩知識は知っていた。すると彼、あるいは彼に影響力を及ぼす誰かがアニエスをシャルルに会わせたくないとの意志を固め、毒殺を実行したのだろう。

前述とおりシャルリエは断定しない。間接状況は毒殺を語っている。母子像に戻る。冒頭に6の不可解点を小筆は記した。

全体を覆う陰気、肌の青さ、左胸のはだけ、腰のあり得ない細さ、母子に一体感が見えない、座る子が指差す先これらの疑念は、死したアニエスと死産の子の肖像画とすれば解決する。

フーケがそれを見た5年の後に、シュバリエから依頼を受け、絵筆を取るも見た姿とは防腐処置の死骸であるから、その通りを絵にした。当時、絵画の主題は固定されていた。母と子を描くとは聖母子でしかあり得ないから、アニエス母子を聖母子らしく天使に囲ませた。天使の表情は不機嫌そのものである。以上がムラン聖母子の部族民解釈である。

疑念は残る。シャルル7世の財務官であるエチエンヌ・シュバリエが何故フーケに母子像を依頼したかである。シュバリエがアニエスに対して負い目を抱え込むからか。シュバリエも毒殺に一役、絡んでいたのか。対の絵にある彼の祈り姿の脇に立つ聖ステファノ(フランス語ではエチエンヌ)。これは依頼主が誰かを明かす仕掛けだとするが、ステファノ描写で立ち姿がすばらしく、表情の「やるげなし」が見事に見えているから、名前明かしにしては手がこみすぎている。彼が手に持つ石の塊が謎を明かす。シュバリエは聖ステファノが受けた石打刑に価すると石が伝えている。

 

 

死産の嬰児は誰が母子を殺したか
指差す(今は離れている双画をネット
で対峙させた)クリック拡大で嬰児が指
差す犯人を教える)








死体が語る歴史(シャルリエ著、河出書房新社刊)著者
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