部族民通信ホームページ   投稿2023é年10月15日  開設元年6月10日
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焼いたらダメってあんた一体なんなのさ?  










































神道は死を穢れとする。焼くの生で埋めるの前に遠ざける。

野辺送りとは化野に穢れを捨てに行く厄介払い
戒名、火葬、読経の葬儀次第を広めたのは浄土宗など阿弥陀信仰派が率先した

。 火葬と仏教のつながりは明治政府にも気障りだった、明治2年には火葬禁止の令を発布した。

直ぐに火葬奨励に改めた。埋める土地が(東京など都会で)直ぐに無くなったから。

日本では火葬がほぼ100%を占める。耶蘇教が優勢な国スペイン、イタリア、フランスでは土葬 « inhumer » 9070%と逆転する(資料は後述)。日本に定住するイスラム教徒は死んで後、「土葬」を強く求める。この異質の死者処置は日本人には受入れがたく世を騒がせている。耶蘇と回教の共通は一神教、なぜ一神教徒は土葬を固守するのか。宗教背景と焼いたらどうなる―を論じます。

クロード・レヴィストロース著の「悲しき熱帯、Tristes Tropiques」のBororo族の章で以下の文に出くわす― ;  « Si nous nous bornons à considérer l'évolution de la civilisation occidentale, il n'est pas douteux que l'attitude spéculatrice s'est progressivement effacée au profit de la conception contractuelle des rapports entre morts et vivants, celle-ci faisant place à une indifférence annoncée peut-être, par la formule de l'Évangile : laissez les morts ensevelir les morts » (Tristes Tropiques, page deux cent soixante et dix)

西欧文明の発展に考えを巡らすと、死者と生者の関係が、投資目的から契約遵守に移行してきたことは疑いようにない。この変遷はおそらく、死者に「投げやり」とも感じ取れる福音書の公式が影響を与えていると推察できる。「死者は懇ろに弔え、あとは忘れろ」をこの公式は仄めかしている、その教条を取り込むようになった。

文意を理解するには幾つかの前提を知る要がありそうだ。

その1 死者への態度は投機 « spéculation » と契約 « contrat » に二分される(レヴィストロースの主張) ;

前の幾ページかで西欧古民話を引用し投機と契約の2例が紹介されている。投機は :  « le chevalier entreprenant » 起業家騎士。麦一粒を懐にして家を出た農民が巧みに言を操り麦から雄鶏に、雄鶏を牛にと取り替えて最後に死体にありついた。なんとそれを王女に取り替えた。ここでは死体には「意識がない」、生者の目的達成のアテ玉に使える(対象物  « le mort comme objet » とも)。

契約は : 借金を背負って死んだ男、家族は借金取りから葬儀を妨害される(葬儀を営まければ天国に行けない。それには金がかかる、引用文に見られる « ensevelir » の意味は葬儀であって、一連の弔い儀礼を死者に施すとなる。墓の用意と人足の手当、屍衣を買い坊主お経とお布施など。その金があるなら金返せと借金取りが迫る。篤志家が死体を買い取り懇ろに弔う。

その晩亡者が枕元に立ち「これからは何をやっても成功する、しかし分前は半々」と告げる。そのつまりで王女をモノにできた。しかし分け前の半分を亡者に盗られた。王女身体の罪深い側(la portion maligne)は亡者が取って、篤志家には罪を犯さない半身(la portion bénigne)が与えられた。どうも下半身と上半身を分割したようだ。

こちらは意識を保つ死体 « le mort reconnaissant » 。この形容詞は「感謝する」が多くの文脈で当てられる。しかし王女の下半身を盗んだ亡者は感謝など持ち合わせない、原義の意識するーとした。

西欧での死者への思い、慣習が(古民話が形成された中世からは)投機が薄れ、契約する姿勢が優勢になって近世に至った。言い換えると中世までは死者は意識など持たないから生者が己の目的達成に使う。それが死者は実は意識を持つのだ « reconnaissant » 、ならば「放おっておけ」の扱いが広まった。そしてこの変遷には福音書の公式の「投げやりの教え」が影響しているのだと。 « Indifférence » を投げやりと、あえて意訳した。理由は ;

福音書は新約聖書Le nouveaux testamentの頁数のおよそ半分を占める。四の聖者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)になる記述により、それぞれが福音(キリスト復活と神の国の未来)を伝える。内容はいずれも似通う、キリストの出自生涯、盲人を治癒させる水面を歩くなどの奇蹟、そして告発を受けそして処刑され、復活する。11の弟子に使徒となって世界中に福音伝え、復活のために信者となれと布教の指示が共通している。その訴えかけしてレヴィストロースが「福音書の公式」と決めつけている。訴えかけの中身は :

1      キリストは神の子(磔刑で死んだがニセ預言者ではない)

2      キリストの統べる神の国が到来する

となるがヒトが守るべき条件が定められている―

3      悔い改めよ、信じよ(そうしないと救われない)

4      世の終わりに審判が構えるぞ、墓場に入っても己の生き様を忘れるな

言い方を替えると「死者は神の国に属す。生きるもの、汝らは亡者を忘れろ」と生者へ投げやり姿勢を勧告している。生者死者の契約が生まれた裏とは「忘れるのは生者、亡者は自覚を持つ」意識改革が(近世に)発生した―とレヴィストロースが指摘する。

忘れるために人々は亡者と契約を交わす。それなりの葬儀 « ensevelir » を営み、居心地の良い墓回りを整え亡者を安心させ、 « laissez les morts ensevelir les morts » 「死者は懇ろに弔え、あとは放おっておけ」。忘却の代償は墓と屍衣と坊主引導の出費だった。葬儀 « ensevelir » は生者の安心料でもある。

福音書の公式 « la formule de l'Évangile » とは畢竟、「亡者は神のモノ」に集約される。このあたりを福音書に当たってみよう。用いた聖書はLa Sainte Bible, L'école biblique de Jérusalemイエルサレム聖書研究会、仏語版 ; « Enfin, il se manifesta aux Onze même pendant qu'ils étaient à table, et il leur reprocha leur incrédulité et leur obstination à ne pas ajouter la foi à ceux qui l'avaient vu ressuscité, il leur dit « Allez par le monde entier proclamez la Bonne Nouvelle à toute la création, celui qui croira et sera baptisé, sera sauvé. Celui qui ne croira pas, sera condamné » (L'évangile selon Saint Marc. Page 1350から抜粋)

11の弟子が食卓に座しているその時に彼(キリスト)は現れた。彼らの疑い深さ、さらに復活を目撃した者たちを信用しなかった不信心を咎めた。世界中を巡り、息とし生きるものにこの良き出来事を伝えなさい。信ずるものは洗礼を受け救われる。信じないものは罰せられる。

 « Qui aime sa vie, la perd ; et qui hait sa vie en ce monde la conservera en vie éternelle. Si quelqu'un me sert, qu’l me suivi, et où je suis, là aussi sera mon serviteur, si quelqu'un me sert, mon Père l’honorera » L'Evangile selon Saint Jean. Page 1417

己の生に耽溺するものは生を失う。己の生を忌む者は永遠の生を持つ。信ずるものは私に従いなさい。私が居るところには私の従者も居る。信ずるものに父(唯一神)の祝福あれ。

上引用は「悔い改めよ、信ぜよ。さらば救われむ」の具体を教えている。(動詞 « haïr » の原義は嫌う。しかし「生きるを嫌う」は意味がなさない。4義に « mépriser en soi la nature pêcheuse » 己に潜む原罪を忌む=Robert、を採用する。)

火葬にすると亡者は姿かたちどころか「悔い改めて信じていたはず」の生前記憶がごっそり消える。亡者との契約には「火葬にしてくれるな」の追加条項が入っていたのだ。留意してほしい指摘を一つ記す。火葬土葬云々は聖書のどこにも書かれていない。火葬されたら天国に入れないとも書かれていない。故に法王は「火葬(incinération)された者でも最後の審判に臨めて、己の言い分を神に伝えられる」の声明を発した(1961年)。しかし今もって、キリスト教徒はお骨cendresが神に「私はこんなに上等な背広を着て褒賞もたくさん貰った。良き市民、軍人、良き信者だった」を陳述できるとは想像が及ばない。火葬拒否は教義ではない、民間信心である、ゆえに頑なだ。回教徒に至ってはなおさら

写真説明 : キリストの死骸を納めた洞穴にその3日後の朝、3名の婦人が訪れた。「汝らがイエスを探しに来たと知る、彼はここに居ない。復活したのだ」と洞穴の天使は告げた。中に死骸は見当たらなかった。3の婦人とはマグダラのマリア、ジャンヌ、ジャックの母のマリア(福音書聖ルカ伝から)。聖母マリアをジャック(ヤコブ)の母のマリアと記す、ジャックはキリストの従兄弟、異母兄、実弟の3の解釈に分かれる。ルカ伝は実弟としている。ジャンヌは、部族民には不詳。画像はウイキペディアから拝借した。

日本では火葬がほぼ100%を占める。耶蘇教が優勢な国、スペイン、イタリア、フランスでは土葬 « inhumer » 9070%と逆転する(資料は後述)。ヨハネ黙示録が伝える「最後の審判」 ; キリスト者はこの世の終わりに神が下す審判(jugement dernier)に臨む。神が善人悪人を判定して、善人だけが天国に迎えられる。故にキリスト者は土中棺桶の中でしっかり善行の記憶を胸に留め、とっておきの服装、金持ちは誂え豪華背広、貧乏人だってそれなりの格好で神の前に立つ。

審判で無罪を勝ち取るためには「焼かずに埋葬」してもらう。焼かれたらお骨しか残らない。骨がなんと己の生き様を神に言い訳できるのか。生身で埋める(inhumer)が耶蘇の葬儀(ensevelir)の標準である。

日本に定住するイスラム教徒は死んで後、「土葬」を求める。回教ではコーランに「死者を火葬してはならない」との教えがある(のだそうだ、ネット伝聞に依る、要確認)。労働ヴィザを持ち日本で働く回教徒も増えている。彼らの悩みが「日本で死んで火葬されたくない」この裏側には「お骨になったら天国に行けない」、まさに生きて働く今の生の最終目的が否定される断崖を前にしている。回教徒は歳を重ねたら(死ぬ前に)自国に帰ればーは解決にならない。部族民(渡来部)として回教徒に安心して « ensevelir » 葬儀を施せる施設の整備を望む。

本稿を投稿するにあたり回教徒、あるいは日本人の回教あるいはアラブ文化研究者の考え、意見を参考にするのが本筋であると考えた。図書館、ネットを探したが見当たらなかった。そこで耶蘇教聖書を引用するにとどめた。祖をアブラハムに発する同系統の宗教として、信仰の基礎の部分(絶対神、原罪、死後の行方)については合わせて論ぜられるはずと考えた。この安直さが間違いであれば指摘してください。

追記1:火葬の比率はフランスで30%、イタリアで10%と少数派である。(数字は « Le triomphe de lincinération », パリ第一大学教授Philippe Boutry氏東京恵比寿日仏会館201934日の講演、小筆の聞き取り)。火葬率には洗礼前の乳児、自殺者、行き倒れ、終身刑徒=本来は死刑の罪、係累不明者、非キリスト者も含む。葬式のあり方を遺族と「契約」している耶蘇教徒に限れば、火葬率はより僅少となろう。信仰と火葬率の相関をBoutry教授に質問したら「宗教観を前提にした調査はフランスでは禁じられている」の回答だった。回教国では土葬は100%であろう。

2:部族民の個人見聞を幾つか : さる熱心な耶蘇教徒 « pratiquant » が死に瀕し、家族は航空会社と交渉し医師、人工呼吸器と技師、念のための神父の組合わせで予約を取り付けた。無事(死ぬ前に)本国フランスに到着できた。同じく熱心な « pratiquant » 、快復を願ったが叶わず日本で死亡。木棺を厚い鉛板で密封すれば貨物便での混載を航空会社は認めた。いずれの場合もX百万円の航空券、運賃の出費であったと聞く。

耶蘇教団は日本に土葬施設を所有している。そこに « inhumer » 土葬されるものは修道士のみ(と聞く)。幾人かの回教徒に墓地を、時限として、提供しているとネットで知った。

焼いたらダメってあんた一体なんなのさ? 了 (2023年9月30日)

  


磔刑されたキリスト遺骸
を埋葬すべく善人ジョセフが
センチュリオン隊長を布
で買収を図る(マンター
ニャ画)








 

キリスト復活を
知らせる天使と
聖マリアらの女たち

































日本では珍しい
土葬墓地(トラピスト修道会)
死んだ修道士を埋葬するために
確保されてある。修道会の好意で
イスラム教徒を仮埋葬していると
聞く。
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