大祓祝詞の成立を4世紀の最後半とした理由は「広開土王の碑」(西暦399年)と神功皇后の朝鮮征伐を同定したから。
(神功皇后)
このあたりはネット情報で確認したわけだが、学会発表等の資料には接していない。勘違い、誤りがあったら訂正する。


武内宿禰(キヨソーネ画)が仕切った穢払えが神道儀礼の原点となった。国のヌサとは硬木と苧麻を高天原に求める大ヌサ。大祓とは6月晦日に宮中で執り仕切られる神事で国中の穢を払う。祝詞に「上通下通婚...」が奉じられる。
古事記は武内宿禰の大祓を伝承している。その祝詞の文言はレヴィストロースが「親族の基本構造」で述べる「近親婚の制度的禁止」とすっかり重なる。1600年前の儀礼が20世紀の「革新的学説」の根拠になっているのだと感じ入ります。

 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2021年1月31日
 
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本朝たはけ2000年 1 (文中の日付、ノンブルはGooBlog投稿の記録です)

(2021125)親族の基本構造(レヴィストロース著1963年第二版刊)に古事記木梨軽皇子の悲恋物語が引用されている。原典に(岩波、古典文学体系)にあたり、レヴィストロースの指摘の正統性を探るに延喜式に出典を漁りして、本文にそれら課程で得た所感をまとめるに至った。(蕃神)

婚(たはけ)の由来を遡れば古事記に至る。仲哀天皇の段、

后(神功皇后)が神がかりし「西方に金銀豊かな国がある、そちらを攻めるべし」の神託がくだされた。天皇は「西を見ても海があるだけ」従わなかった。武内宿禰の願いで琴を引き寄せ奏でるが、音が消えた。宿禰が灯りをともして見ると、天皇は「崩(カムアガリ)たまひぬ」。

殯宮に安置し、宿禰が「国のヌサ」を取り大祓を為(し)た。その祝詞が

「生き剥ぎ、逆剥ぎ、阿離(あはなち)、溝埋、屎戸(くそへ)、上通下通婚(おやたはけ、こたはけ)、馬婚、牛婚、鶏婚の罪の類の種々(くさぐさ)まぎて」国の大祓えをした。(古事記祝詞、日本古典文学大系1、岩波229頁、引用は同書から)

国の大祓とは「国中の穢れを祓う」宮中の儀礼。この儀礼確立を古事記の成立(712年)前後とすると、8世紀前半である。一方、宿禰の祓えの舞台は仲哀天皇神功皇后の世、古事記がその頃の神儀を再現しているとすれば、同天皇統治の正確な暦年は不明だけれど、歴史資料から4世紀後半390年前後としたい。すると祝詞で伝える穢れ「婚たはけ」は今からそのころから神道祓えの古式拝礼に取り上げられていたと言える。

仲哀天皇を4世紀終盤とした理由は倭の朝鮮侵攻(西暦399年、広開土王の碑)に依る。これを神功皇后の三韓征伐と同定する。今の史学の主流もそのように傾いていると聞く。これを持って同天皇の統治におおよその見当はつく。

古代には「婚たはけ」を罪(穢れ)とすでに規定し、穢れを清める神主さん、その先祖形が祝詞を唱えヌサを振るって活躍していたと推察する。もちろん宿禰の祝詞や祓い儀礼の一切は、古事記成立当時の式次第であるとの反論はあるだろう。ここで本書「古事記祝詞、岩波日本古典文学大系」を注意深く読んで欲しい。描写される情景は「沙庭の灯りを全て消し天皇(大王)が琴を取り寄せ自ら奏で、神託を得る」。こうした手順は古事記のかなりの以前、太古のものとの頭注が読める。倭人伝の卑弥呼にも読める「鬼道につかえ衆を惑わす」、古には祭儀を鬼道(神道であろう)の長が司っていたと知れる。天皇自らの神託請け(闇の沙庭を前にして琴を奏でる)は太古の儀礼式であろう。

ならば祝詞も太古に求める。するとたはけは本朝1600年の長きにわたり嗜なまれ、ひたすら実践されていたのだ。祓わねば穢れが国土に蔓延する。宿禰が始めた祝詞の文脈、そこに警告される罪なるは、かっぱらいでもオレオレ詐欺でもなく生の乱脈、これがたはけ、それしかなかった。祝詞にその実態を取り上げた宿禰の英断にはそしりも非難もなく、皆にもただ納得がいくはず。

牛とか馬とか豚とかは無視して、人と人の「婚たはけ」に焦点を絞るろう。

その範疇は;

1        上下(おやこ)婚たはけ。子と母、娘と父。

2        水平(兄弟姉妹)婚たはけ。兄弟と姉妹。古事記に事例がある(後述)けれど、忌避されるは同腹の兄弟と姉妹。異腹兄弟姉妹の淫は大目にみられ、特段に干渉されず夫婦に結ばれた。

3        娘と母、ないし母と娘とのたはけ(頭注に母と子、子と母を犯す...)。これは己の姑と、あるいは義理娘との淫であろう。

(延喜式祝詞からとった。同式が古事記内容をより詳細に分解したとの判断、延喜式は補遺にて取りあげる)

ここで祝詞のたはけと親族の基本構造が論じている「近親婚禁止」と比較したい;

レヴィストロースの主張では「禁止」は「同系統の男女の婚」に限定される。血縁が近くても別系統であれば婚は許される。上、祝詞での1(上下婚)と2(姉妹婚)は彼が伝えるとおりの同系統での禁止。

3はどうだろうか。彼はこうした規定(3)を文化の規則に入れるから、これも1,2の流れとしている。ボルネオ先住民の例では姑、義理姉妹との婚たはけは実の関係より厳しく禁止されていると報告を挙げている。

もう一つの彼の主張は「禁止」は社会制度としてである。観念情緒、あるいは倫理からの禁止、これは禁忌となるが、そうした仕組みではない。すると彼の説「禁止」の概念は、それを「穢れ」として宗教教義に組み込み、対処方式(祓い)を規定した。これも社会の制度である。

古代日本の神式にレヴィストロースの説がすっかり当てはまっている。そして古文書資料として残されていた。

本朝たはけ2000年 1 了

2021127日)本朝たはけ2000年 2

古事記に戻る、

崩御を確かめ宿禰は「国のヌサ」をとり殯宮に鎮座する神に向かい、息途絶えたスメラギ死骸を下に見てヌサを大振いして穢れを祓った。天皇に結集して死に至らしめた国の罪穢がヌサ祓いで清められた。これこそ「祓い」の原点、本朝の黎明期なれば神事始めの礼拝と、ヌサ祓いの儀式がかくと制定された。

国のヌサには規定があって「高天原の堅木を採って、高天原の苧麻をしごいて....延喜式」神主さんが祝詞で用いる今様ヌサの原型です。国の穢れとは、

上引用の「上通下通婚(おやたはけ、こたはけ)、馬婚、牛婚、鶏婚の罪の類の種々」であり、それのみである(生き剥ぎは後述)。本朝この世(4世紀)には野に山に、罪穢を跋扈のままに許す汚れまくりの国土だったのだ。こんな名誉ではない結論に走ってしまう。待て、(たはけまくり民族)なる結論は短絡にすぎるとの反論もあるだろう。

 

問題は近親お試しの頻度とか耽溺常習者の多寡ではない。わずかな例であろうと穢れを清めず、放たれるを許すと瘴気が野山を漂泊し、ひいては里に落に惨禍をもたらす。作上げ不順に苦しむ百姓らの恨みが山に籠もる。清め祓いは為政者の勤めでもあった。いうなれば未然防御、太古の公衆衛生との解釈も無理ではない。

神道原点は「穢れと祓い」だから神の末裔、国の統帥たる天皇は、少数の不届きモノがまき散らす汚悪を封じ込めん、臣雑民には平安あれと日夜、気にかけている。その原点が宿禰祝詞にあるとの見方は自然である。

国祓えは大祓えと名称が変更され、6月と12月の晦日に行われることとなった(同書229)。古事記と変わることなく祝詞は「….上通下通婚(おやたはけ、こたはけ)、馬婚、罪の類の種々(くさぐさ)まぎて」。これを神の前にこれを吟じ、明治維新まで(宮中行事として)継続した。

古事記たはけ、実例、

允恭天皇記(同じく日本古典文学大系古事記、岩波)から、

木梨軽皇子と衣通王(そとおり姫)の水平婚(あにいもたはけ)。顛末は罪、残すは穢であるが、人には「悲恋」として口に上る。レヴィストロースが日本古書からとして「親族の基本構造」に引用した。

木梨軽皇子、日継ぎ知らしめますに定まるを、未だ位に即(つ)きたまはざりし間に、その伊呂妹(いろも、同腹の妹、同書注から)軽大郎女、亦の名は衣通郎女(そとほしのいつらめ)に姧けて歌ひたまひく、

♪あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下といに 我がとふ妹を下泣きに 我が泣く妻を 昨夜(こぞ)こそは 安く肌触れ♪(同書293頁)

「山田を耕しその高みから(人目をはばからず)、埋め樋を通しその樋から(人目を忍び)我が訪ねる妹を、忍びに泣く妻を、昨夜やっと優しく抱いたのだ」

もう一首

♪笹葉に打つや霰の たしだしに 率(い)ねてむ後は 人は離(か)ゆとも 愛(うるわし)と さ寝しさ寝てば 刈薦(かりこも)の乱れば乱れ さ寝しさ寝てば♪(同293頁)

「霰が笹の葉を打つ音のようにしっかりと、とも寝に明けた後ならば、離れたとても愛(うるわし)狂わし、乱れば乱れ、寝たし寝たのだ」(同)

(歌の解釈は頭注を参考にした、パソコン変換出来なかった漢字も多)

歌を詠むとは心を公にする社会行為である。

当時(5世紀前半Wikipedia)にも「歌会」の宮中社交は機能していたから(知らないけど)、諸臣百官の集まりで前引用2句、同腹の妹との交合を仄めかす、生々しい歌を軽皇子は朗々と詠じた。同腹、同じ系統filiationでの婚たはけ、これは武内宿禰が半世紀ほど前に祝詞に託し宣言した「近親婚の禁止」に触れる。

皇子は己身に穢れが籠もると堂々と告白したのだ。

 

日継ぎといえ人心は離れる。

百官及び天下の人々、軽皇子に背きて穴穂御子(第2子)に帰(よ)りき。爾(つい)に軽皇子かしこみて大前小前宿禰の大臣の家に逃げ入りて…(293)

皇子は武器を取り権力奪回を計るが、多勢に無勢、大前小前宿禰に裏切られて召し取られ、伊予の湯(道後温泉)に流される。

このたはけについてレヴィストロースは;

「同腹でも姉と弟であれば許された、多目に見られた(はず)。近親婚を実行していた世界各地の王族階級でも「姉と弟」は認められ、「兄と妹」は同腹異腹にかかわらず、禁止していた((古エジプト、ハワイ、オセアニアなど)。理由は年少の女子は男(父か兄)にとって「交換財の目玉」。それを手につけるは「女交換サイクル」を破壊する行為そのものである。

les ancian textes japonais decrivent l’inceste comme une union avec la soeur cadette>(12)日本の古い書は「近親婚」を妹との婚姻と規定している(姉との婚姻なら許される)。

もう一つの指摘は、

「貴顕階層は幼少には母方の父の住まいで養育される(本朝でもその決まりがあった)。異腹であれば住まいは別、すると別の系統filtlationとの意識が当事者、さらに周囲にあった。別の系列filiationとなれば婚姻を結べる相手となるが、この規定が異腹兄弟姉妹にも適用された」

そうした実例は古代天皇家に限っても幾例かが拾い出される。用明天皇と穴穂部間人皇女(聖徳太子の父母)は異母兄妹であった。

 

2021127日)本朝たはけ2000年 2

 

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