Hyppoliteは哲学者、ラカンをやり込めた
出身リセに銅像を建ててもらってる、人格者なのだ、ラカントの対話にもその雰囲気はうかがえる。
レヴィストロースが訪問し、ラカンと神の介在を議論したパリ、サンタンヌ病院| 部族民通信ホームページ 開設元年6月10日 投稿2022é年4月15日 |
| |
|
||||||||
| ラカンとレヴィストロースの接点 下 | |||||||||
| ラカンとレヴィストロースの接点 上 ラカンとレヴィストロースの接点 下 ラカンとレヴィストロースの接点 番外 (マンターニャのLeCalvaire紹介) |
|||||||||
|
目次 精神分析での先験 |
|||||||||
|
ラカンとレヴィストロースの接点 下 2022年3月18日~4月1日にGooBlogに投稿した同名作品をホームサイト向けに加筆した。文中の日付、ノンブルはBlog投稿時から変えていません。 レヴィストロースはどこに行くのか。ラカン講釈に耳を傾けよう、 <Lévi-Strauss est en train de reculer devant la bipartition très tranchante qu’il fait entre la nature et le symbole, et dont il sent bien pourtant la valeur créative, car c’est une méthode qui permet de distinguer entre les registres, et du même coup entre les ordres de faits>レヴィストロースは事象を自然と象徴とで分断する2元論に今、取り組んでいる。その論法こそ高い価値を生み出すと自ら信じている。なぜならそれは事象(registres)と秩序(les ordres de faits)を分別しているから。 ラカンは精神活動を事象と対峙させる。これこそレヴィストロースが諭すforme形体に対する思想idéeの対峙と同列と理解できる。レヴィストロースの構造主義をラカンの言葉で解析しているとも思える。 レヴィストロースの著作(1954年時点で学術論文を除き「親族の基本構造」のみ)に当てはめると、自然とは「人は小集団バンド生活を維持し系統内での婚姻を禁止し族外婚を実践していた」これを小筆は旧石器時代を指すと想定し、新石器革命を経て文化を獲得して「嫁、婿を交換する婚姻の制度」を設けるに至った。人の思索活動(社会をどのように構築するか)に対峙させる形体(実際の婚姻)の構造体を「主義」として練り上げた。 ラカンは精神の根底に(象徴化能symbolique)を想定し、精神活動として空想imagination、実際réelを対峙させた。レヴィストロースの構造主義には思索する力にtranscendantal(カント先験)を置き、思索活動として思想(idée)、これが実際のモノ、形体(forme)と対峙する。この思索の構造とラカン唱える精神活動の有様は酷似している。 ラカンはレヴィストロースの構造主義をかく正確に理解した。同時に彼は神を葬ったと解析したのである。この後に衝撃の一文、 <il craint qu’après nous avons fait sortir Dieu par une porte, nous ne le fassions entrer par l’autre>彼(レヴィストロース)は我々が1の出入り口から追い出した神が、もう一方の口から入りこむのを見逃しているのでないかと怖れている。 1954年11月30日のサントアンヌ病院、講義室で有神対無神の論者、構造主義の原点とラカンの確信、火花沸き上がる論交がレヴィストロースとの間に交わされた。 ラカンとレヴィストロースの接点 3 了(2022年3月23日) 追:ちょっと文法。上の引用 « nous ne fassions »neは虚辞(explétif)、肯定を表現する。虚辞は段々と用いられなくなっているが、動詞craindreを受ける接続法では頻繁に用いられるーとの解説を文法書 « Le bon usage » で得た。ラカンの口説はその典型であろう。セミナー日付は1954年12月、70年近く以前の発言であるから現代フランス語explétif用法とは異なるか。 ラカンとレヴィストロースの接点4(2022年3月28日)神が裏口から下 <il craint qu’après nous avons fait sortir Dieu par une porte, nous ne le fassions entrer par l’autre>追い出した神が裏口から…に続く文は; <Il ne veut pas que le symbole, et même sous la forme extraordinairement épurée sous laquelle lui-même nous le présente, ne soit qu’une réapparition de Dieu sous un masque. Voilà ce qui est à l’origine de l’oscillation qu’il a manifestée quand il a mis en cause la séparation méthodique du plan du symbolique d’avec le plan naturel(48頁). 訳:象徴に対しての彼(レヴィストロース)の態度は、それが本性をすっかり剥ぎ取った無垢の姿になろうと、その格好のもとでその身を我々に見せるわけだから、マスクで本来姿を隠した神の忍び入りでは無いかと畏れる。ここに彼(レヴィストロースの)自然と象徴による宇宙の分割を主張する時に、隠し通せない動揺の源があるのだ。 象徴(symbole、symboliqueとも)はラカン用語、レヴィストロースが用いる先験(transcendantal)に対応する。一般には先験は状態、活動に思考機動力(entendement)を当てる。その力から派生する「思想idée」が事象「形体forme」と対峙して、ここに構造世界を構築する。ラカンは精神の根底を先験と言わず「symbolique象徴能」と規定する。象徴能に「空想imagination」が誘発される。空想は「自然nature」を精神に空想過程をへて取り込む(精神分析を語る文脈ではnatureがréelとなる)。この部分は後述により詳しく述べる。 人が思想を形成する活動は思考する力(entendement)に端を発する。それは人の自発そのもの(先験)であるが、実はそこに勘違いが生じていて神の差し金が介在するのだとしたら。マスクを被る神に気づかないまま、人は騙されて入るのかもしれない。お釈迦様の手の平の孫悟空と形容できるか。彼レヴィストロースの畏れがここにあるとラカンが教えてくれた。 自発思索が可能である背景にカントの先験を「近代の知識人ならば当然」としてレヴィストロースは受け入れた。ここに無神論が漂うのを(部族民)は感じるし、彼も無神論者を標榜する。考え分析するに神の介在は無いと主張するが、ラカンは「神に騙される」経路、あり得る裏口侵入を指摘した。ラカンは敬虔な耶蘇教徒。 この下りを読んだ小筆には驚きを越す衝撃が走った。このような指摘を聞くのは初めてで、レヴィストロースの反応に至ってはこれまで読んでも聞いてもいなかった。20世紀、フランス言論界2の思想の巨人の対話となれば深淵にして壮大。かくも宇宙スケールの話題を採り上げたと感服した。 (神の裏口侵入は了) 本投稿1回目(3月18日)にて驚きの感想とした第3点「心理分析にも先験(transcendantal)がある。それが「Fonction symbolique」に入る。核心部を前回に記した。 ラカン著作とはフロイト学説の紹介に尽きるのだが、ラカン思考の流れのなかでそれを読み取るにあたり「自我、思考する力それと外界との関わり(expériences)を見極める能力がフロイト全体解釈に最重要」とラカンが講釈を垂れる。 自我moiとは何か、次に引用する文を皮切りとする一節にて解釈を取り組み、ラカン精神分析を探ろう。 <Je pense pouvoir montrer que pour concevoir la fonction que Freud désigne sous le nom de moi, comme pour lire toute la métapsychologie freudienne, il est indispensable de se servir de cette distinction de plans et de relations qui est exprimée par le terme symbolique, d’imaginaire et de réel >(50頁). フロイトが自我(moi)の名のもとに定義した機能(力)が何たるかを、我は語れると思うぞ。彼が用いる3の用語、それは象徴能(symbolique)空想力(imaginaire)そして現実(réel)、これらを分別しさらに関連性を明瞭にする過程こそが、フロイト超心理学(métapsychologie)著作に接する心構えなのだ。 注:フロイトから抽出した1象徴能 2空想力(imaginaire)3現実(réel)が精神分析での3の形而上métaphysique要素である、とラカンが強調。これを記憶に止めて読文に進む。 ラカンとレヴィストロースの接点4神が裏口から下の了 (2022年3月28日) ラカンとレヴィストロースの接点5 象徴、空想、現実 (2022年3月30日) 続く文にはそれらに関連しての自我が見える; <Le moi, dans son aspect le plus essentiel, est une fonction imaginaire. C’est là une découverte de l’expérience, et non pas une catégorie que je qualifierais presque d’a priori, comme celle du symbolique>自我、その最も基本的部分とは空想力(une fonction imaginaire)である。そこにおいて、経験を、自己の内部に組み立てる事ができる。それは、前もってと規定するにやぶさかではない象徴の力(symbolique)とは、別個の働き様である。(前述したsymboliqueなどをここで採り上げる) 上引用文には3用語(象徴、空想、現実)が、それら仕組みを説明する文脈の中で、揃い踏みで引用されている。深読みすると象徴のみが「前もってa priori」の働く力を(個の中に)蓄えている。その働き方をa prioriとラカンはした。辞書ではEn partant de données antérieures à l’expérience体験以前に仮定をもって思考する(Robert)。スタンダードでは「先験」と割り切る。Transcendantalはカントが主唱する先験である。すると「先験」には2用語を選べるのだが意味合い、使われ方で差異がある。 カントの先験は思考する「道具一式」を生まれながらヒトが具有するー知恵の根源としての意を受け留める。一方a prioriは思考を始める前に用意される「取り置きのメニュー」かと。2義として仮説(hypothèse)のを表す場合も(Robert)。会話でも頻繁に用いられ、その場合には「前から決まっている事柄」を軽く表す。こうした場合で彼ら(幾分snobな知識人)は決してtranscendantalとは言わない。カント用語が重い語感を与えるためだろう。ともかく « a priori »がラカンの口から出た。 そして空想は象徴とは異なる動き方となり、現実を自己のものにする思考、分析と受け取る。現実は目の前の事象。 自然哲学への批判が続く。<En parlant de l’échec des différentes philosophies de la nature. Elle est bien décevante pour ce qu’il en est de la fonction imaginaire du moi>すべての別次元の哲学、自然哲学について述べよう。彼らが語る自然は、自我には空想する力が宿ると唱える者(ラカン派)にとり、幻滅以外何者でもない。 「別次元の哲学」はラカンが唱える心理学と異なる学派。それらは自然主義を取り込んで結局は失敗したーが彼の批判。自然主義心理学はゲシュタルト心理学をほのめかしている。確証はないので「自然」を理論の骨格とする心理学を指すとする。 <La structure fondamentale, centrale, de notre expérience, est proprement de l’ordre imaginaire. Et nous pouvons même saisir à quel point cette fonction est déjà distincte dans l’homme de ce qu’elle est l’ensemble de la nature>(同)我々(ヒト)にあって経験に向き合う仕組みは、精神の深部中央において、空想する手順の構造化にある。経験とは自然の集体であり、それと(構造化される)空想とは別物であると我々は認識できるのだ。 Nature自然をどのように理解しているかは<Ensemble des choses considéré comme obéissant à des lois générales>一般的法則に従うとされる物事の集体(Dictionnaire de Philosophie)。となります。哲学においてそれは「事象は自然、何らかの摂理に統合される」結合体と捉える学派で(ゲシュタルト心理学がこの志向を持つ)。 対して精神分析では「構造体」を考えているからラカンは構造を持ち出す。空想力は手順(ordre)を備えるから錯綜している自然をそのままの状態では記憶しない。手順で持って処理して、それら事象を精神の内で「構造化」するーの主張となる。 この一文において精神と自我の捉え方が精神分析の哲学は、ゲシュタルト心理学とは相容れないのだと参加者(特にMannoniに、彼がこの話題を持ち込んだから)諭している。(心理学には門外漢だからこの説明に勘違いが混入していたらご容赦を) ここでの自然をréel実態に置き換えると分かりやすい。空想力とは精神(自我)がréel実態と対峙する、その全容をつかみ空想域に落とし込む。空想は力(fonction)であって手順(ordre)に沿ってréelを構造に組み直す、これが深層心理を形成するのだーと部族民は読みます。
フロイトに主題が振れてその著作 « Au-delà du principe du plaisir»( 人間の行動における自己保存を快楽原則によって支配されたエロスのドライブ=Wikipedia) が話題になる。( duは原文通り、書名はde。細かいながらこの差異に拘泥する訳はdu plaisirの言い回しであれば喜びを一元化している。ラカンはそのように考えていると理解する) ラカン曰く<Les derniers paragraphes sont littéralement demeurés lettre close et bouche fermée>本書肝心の最終節は文章的に停滞している。語句が閉ざされ、語りの口は結ばれたままと評し、その後文で « dualisme »を取り上げる。ラカンはこの二重を説明しないから広く膾炙している「表層、深層の二重心理」と目星をつける。 <Ce dualisme n’est d’autre que ce dont je parle quand je mets en avant l’autonomie de symbolique. Ça, Freud ne l’a jamais formulé. Pour vous faire comprendre, il faudra une exégèse(51頁). この二重性は私が先に強調した象徴化の自律に他ならない。これについてフロイトはどんな理論化も試みていないから、私が「聖典解釈」を試みる。この進め方でしか(君たちは)理解できまい。 大見得を切ったが、舌鋒はすぐさま弱まる<Mais je crois que je pourrai vous démontrer que la catégorie de l’action symbolique est fondée>象徴化については確立している、いずれ君たちに説明できるよ。はぐらかし、逃げ文句が出てきた。ここでラカン舞台が暗転した。 参加者Hyppoliteからこの機を逃すまいと衝撃の突っ込み。<La fonction symbolique est pour vous, si je comprends bien, une fonction de transcendance, en ce sens que, nous ne pouvons pas y rester, nous ne pouvons pas en sortir>象徴化する力とは、私が正しく理解しているとして、超越(transcendance、先験)機能を意味としているのですね。それだったらそこに留まる(=それを説明する努力)はできず、またそこから離れること(無視する)も不能ですね。 ラカンはsymboliqueをa prioriと表現した。Hyppoliteはこの用語が気に入らない。A prioriなんて俗っぽい表現は気に入らない、哲学用語のtranscendanceに言い改めたらどうかとラカンに問いただした。。ラカンは<Bien sûr. C’est la présence dans l’absence et l’absence dans la présence>勿論ですよ、それって不在の中の存在で、かつ存在の中の不在だよね、すかさず返答した。 (Transcendanceの意義は「神が与え給えし」みたいな絶対能。deを被せて形容詞として用いた。カント先験transcendantalは、形容詞化した語を名詞にした。両者は厳密には同じと言えない。しかしそれは同一と結びつけたのは部族民の解釈。これで行こう) Hyppoliteが形容した「留まれないし逃げもできない…」は解釈できたから拙訳を入れた。それにしても小筆にはラカンの返答の不在の存在…の意味が分からない。しかるに対話する両者にしても、居合わせる参加者にもこの問答は理解できたであろう。形而上の文言を散りばめ、これほどにも頭を捻らせるやり取りが、20世紀半ばに彼の地はフランスパリで交わされていた。禅問答を聞いているかの錯覚を小筆は覚える。 Hyppolite氏、a prioriを耳にしてそれをtranscendanceに言い直すべく注意深くラカン講演を追っていたのだ。この御仁はスッゲーと感心したがそれもその筈。 ラカンとレヴィストロースの接点5 象徴、空想、事実 了 (2022年3月30日) ラカンとレヴィストロースの接点5(最終) 精神分析、構造主義、現象論三題噺 (2022年4月1日)前回投稿(3月30日)は「この御仁はスッゲーと感心したがそれもその筈」で終わった。ラカンの喉首に匕首を立てた質問の主はHyppolite。こんな御仁です; 「ジャン・イポリット(Jean Hyppolite, 1907年1月8日 - 1968年10月26日[1])は、フランスの哲学者。ヘーゲルを始めとするドイツ哲学の研究者として著名である。また、20世紀後半にフランスで活躍した複数の哲学者・思想家を弟子として輩出したことでも知られる」 「イポリットは高等師範学校の学長に就任した。そして1955年にはマルクスの初期の著作、つまりヘーゲルの影響が色濃く見られる時期の作品に関する研究を発表した。それはまさに、フランスにおけるヘーゲル熱が最高に高まっているタイミングでの出来事だった。1963年、彼はコレージュ・ド・フランスの教授に選出された」(2の引用はWikipedia丸写し) 前回に「禅問答」風のやり取りを挙げたのですが、その続きを; 彼が(Transcendance=経験に先立つ知恵)そこに留まることも抜け出ることもできないと講釈を垂れた続き<Nous ne pouvons pas nous en passer, et toutefois nous ne pouvons pas non plus nous y installer>この句は前文と同じ(抜け出ることも立ち止まることもできない)。なぜ繰り返したか。いつもなら丁々発止、打てばたちどころに大音響でハネ返すLacanの対応が、Hyppoliteの目の前、一瞬詰まった。「ムヌヌゥ...」敵Lacanに考え込むゆとりを与えてあげた、その為の繰り返しです。論敵に優しい、人格も優れているからHyppoliteの胸像まで建った(出身リセ校の中庭)。 武士の情けのこの一瞬、息を吹き替えしたLacan。<Bien sûr. C’est la présence dans l’absence et l’absence dans la présence>なる返事(前出)を、これだって意味不明なんだが、差し挟むことができた。これを<それは在るようで無し、無いようで在る>と訳すけど、なおも意味不明。でまかせ文句の言いっぱなしの感がする(部族民の理解力不足はある)。 Hyppolite<Je voulais comprendre ce qu’il y avait à comprendre>(文脈からしてtranscendance知恵のfonction力)そこには理解せねばならない何かがあり、それが何かを知りたいのです。Lacanの返事は; <Si vous voulez maintenir ce que vous m’apportez là, sur le plan phénoménologique, j’ai aucune abjection à y faire. Seulement, je crois que ce n’est pas suffisant>あなたが私に問いかけるその事は、現象論の立場からであるとするならば、私には異論がない。しかるにそれのみでは充足しない。追い打ちが<Pour être purement phénoménologique, ça ne nous avance pas beaucoup>現象論一辺倒となってしまうと先に進まないから。 どうしてもtranscendanceから離れたい気分がLacanから滲む。 Hyppoliteはヘーゲルの「精神現象論」をフランスに伝えた功績で知られる。Hyppoliteが口走ったtranscendanceがヘーゲルで取り沙汰されていて、その趣旨はカントのtranscendantalに「関連が強く」、Hyppoliteは哲学者として知恵と精神の統合を考えているからtranscendanceに寄り付き、統合に緒にせむとした。Lacanが中性的響きのa prioriを用いたのは会話でのうっかりではなく、その語に纏わる「知恵としての先験」を嫌ったから、あえてtranscendanceを避けた(部族民の推察)。 Lacanが精神分析で扱うのは精神、心理であって知恵ではない。現象学の分派ではないぞの気構え。そう推測を巡らせるとHyppoliteの不満げな質問、Lacanの端切れの悪さに思いが至る。 三題噺なのでパワーポイント図表を作った。Wikipediaによると20世紀半ばのフランスの思潮界は個、知恵、社会の統合を目指していた、その運動の中心にHyppoliteが鎮座していたとも。ラカン、レヴィストロース、メルロ・ポンティにしてその統合を精神、知恵、知覚から目指していった。図表(右)を御覧ください。 ラカンとレヴィストロースの接点5(最終) 精神分析、構造主義、現象論三題噺 了 ラカンとレヴィストロースの接点 下の了
|
|||||||||
| |
|||||||||