

| 部族民通信ホームページ 開設元年6月10日 投稿2022é年4月15日 |
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| ラカンとレヴィストロースの接点 上 | |||||||||
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目次 |
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ラカンとレヴィストロースの接点 上
2022年3月18日~4月1日にGooBlogに投稿した同名作品をホームサイト向けに加筆した。文中の日付、ノンブルはBlog投稿時から変えていません。 序(2022年3月18日) Jacques Lacan(ジャック・ラカン、哲学精神分析、1901~81年パリ)に取り組んでいます(取り組み理由など仔細は右コラム)。ラカンは論文形式での著作を発表していない。勤務する病院(パリ・サンタンヌ病院)後に高等師範学校の講義室で哲学者、精神分析医を集め、フロイトのセミナー講義を受け持ち(1953~64年)、議事録を「セミナー」として後日出版した。全12巻あると聞くが部族民は第一作、二作、六作を購入した。 ラカン著作 Le séminaire livre II。
軽いノリに大家風の独善が感じられる。プラトンの「対話篇」を意識しているわけで、本人もプラトン、ソクラテスに言及している。 口語でありながら中身は迂遠、内容は高尚なる思考を展開している。軽く読み進めるといつの間にか論理展開に追随できなくなるし、理解を途絶する比喩(多くは換喩)が挟まれてくる。ラカンが難しいとは語り口の軽さに惑わされ、換喩が一体、何を言い換えているのかを探るに手こずる2点かと。 Dissertation 調にまとめればより理解が深まるはずだなどと妄想もちらつく。 内容確認のため一通り3冊のtable目次に目を通した。
「解釈の難しいラカン」に取り付く手立てができたと。Lévi-Straussを話題にしているこの章を「ツマミ読み」して、その理解に少しは近づくだろう。Lévi-Straussを取っ掛かりにラカンを理解する企みである。言うなればラカン大学に裏口入学しようとの姦計、コスイ魂胆ですがこれが正解でした、半歩は稼げたかもしれぬ。ドヤ顔(その面見せられぬを許せ)の成果を脇に抱えこのレヴィストロースの章を紹介します。 文頭<Comment pouvez-vous attacher tellement d’importance au fait que Lévi-Strauss fasse intervenir dans son langage des mots comme compensation> (本書40頁)レヴィストロースがcompensation代償なる語を自身の文脈に潜り込ませている事実を、どれほどに重要かをあなた達は説明できるだろうか、に始まり <Après Lévi-Strauss on a l’impression qu’on ne peut plus employer les notion de culture et de nature. Il les détruit>(セミナー参加者Octave Mannoni精神分析医1899~1989パリの発言、52頁)レヴィストロースが出てからは人は文化と自然を語れなくなった。レヴィストロースはことごとくそれを破壊した。 文末に至るまで、おおよそ全の行句に彼の影が重くのし掛かっている(部族民の感想)章でした。 プラトンの対話風セミナー、本章で採り上げられる提題とは; 1 ネパール、チベットなどの辺境での嬰児殺しの風習、対象は女児。その代償は人口の男女比の歪さ。この風習に対し「代償compensation=前出」を説明として用いるレヴィストロースに異議を定ずる参加者に、ラカンが私見を披露する。 2 因果律(causalité)と究極律(finalité) 3 シンボル化機能(fonction symbolique) 4 個と集団は「全く同一」ラカンからの指摘に対するレヴィストロースの返答 5 エディプスコンプレックスに対するレヴィストロースの返答 6 近親相姦(の禁止律)に対する精神分析からの解釈 盛りだくさん。順を追ってこれらの解説をしていきます。 直近、次回はそれら解説の前に全体をとおして驚きの感想を伝えたい。3点あって(一部前出); 1 嬰児殺しの風習には社会へ代償が用意される。別の言い回しで「君たち、頑張って女児を殺したよね。これが褒美だよ」。人道など無視したあっけらかん、乾燥しきった解釈にレヴィストロースとラカンが一致している。 2 (構造主義から)神を追い出したら裏口からマスクを被った神が忍び込んできたー怯えるレヴィストロース。 3 心理分析にも先験(transcendantal、カントの概念)がある。それがFonction symbolique。 次回(3月21日)をお楽しみに。(2022年3月18日)
ラカンとレヴィストロースの接点 2 嬰児殺しで社会にご褒美 (2022年3月21 日)前回投稿(18日)で本章(セミナー第二巻、第3章)での驚き3論法を挙げた。その1、女児嬰児殺し(infanticide)の風習(かつてのネパール、チベットなど)から社会が受取る代償(compensationの原義はご褒美)を採り上げます。 文頭<Comment pouvez-vous attacher tellement d’importance au fait que Lévi-Strauss fasse intervenir dans son langage des mots comme compensation> (本書40頁=前出)レヴィストロースがcompensation代償なる語を自身の文脈に潜り込ませている事実を、どれほどに重要かを説明できるだろうか。 このラカン注釈はセミナー参加者Anzieuからの報告<il s’agit des tribus thibétaines ou népalaises, où on se met à tuer les petites filles, ce qui fait qu’il y a plus d’hommes que de femmes> チベット、ネパールのいくつかの部族では女児殺しが実践されている。結果、これら部族の人口は男が多く女が少ない。これをしてcompensation代償なる語を用いるは理解し難いに返答するものであった。(Didier Anzieu、精神分析医、ディディエアンジューはフランスの著名な精神分析医でした。1923~1999年パリWikipédiaから) 文を読んで初めの理解は「嬰児殺しが起因となって社会には<支払う代償>が科せられる」だった。支払う代償とは人口の男女偏倚、個の悪行が社会に転嫁して罰としての「代償compensation」、その不道理を読み取ったのだが大違い。社会は「ご褒美」を受けている。誤読、勘違いの理由はcompensation意義の取り違えで、根源には蕃神が日本人であるから。「悪習には罰が課される」仏教が教える懲悪の摂理が土着脳に無条件反射を引き起こし、勘違い解釈に至った。 この解釈では次節の<Nous ne pouvons pas ne pas accorder à Lévi-Strauss que les éléments numériques interviennent dans la constitution d’une collectivité >(同)レヴィストロースの主張「集合体における数値要素が社会を規定する」これを認めざるを得ない。二重否定の言い回しは理解にいささか難しい、これも修辞。以下に上引用文を意訳解釈する; 拙訳:社会が成立するためには数のバランス(élémentsの意訳)が不可欠で、人口比をそれに当てると男女1対1が通常。しかし対等均衡を崩しても、その社会に最適化するバランスはあるのだとレヴィストロースが言うのだが、それは正しいと認めざるを得ない。とラカンがAnzieuに諭した。 すると前引用文の勝手解釈(支払う代償)と上文の意味(最適化される)は文脈として整合しない。 辞書ではcompensationに<Avantage qui compense un désavantage>不利益を保障(補填)する利益。例文<Compensation reçue pour des dommages>損害に対してもたらされた代償とある(Petit Robert)。CompensationをAnzieuにしてもラカンにしても勿論、それを受け取る報酬として理解する。 すなわち嬰児殺しを実行すると社会が利益、保障を受取る。レヴィストロースはその仕組みをしてcompensationと説明した。Anzieuはその語義を知っての上で、社会が利益を受ける構図は理解しにくいとラカンに説明を求めた。これが引用文の流れです。 社会が享受する利益とは; <Vous voyez le sens que le mot de compensation peut avoir dans ce cas-là ― s’il y a moins de femmes, il y aura forcément plus d’hommes>(41頁)。代償なる語の、この文脈での用い方でのその真の意味に気付くと思う。もし女が数少なければ、男がより多い(社会への褒美)となる。 男女比の不均衡はこの社会が目指すles éléments numériques(数的要素)、不均衡こそ社会が受取るご褒美なのだ。 ネパール山間地域は地の生産性が低く行商、季節労働などインドへの出稼ぎで生計を維持してきた。兄弟が3人揃えば協力して一の家計を賄う、一人は家屋、田畑を守り、二人は出稼ぎに。これを周回させながらの生活形体を保つ。しかし主婦は一人。一妻多夫(polyandrie)婚姻が実践されている(いた)。生産性に寄与する男を多くすれば、女はより少なくなる。その数的不均衡が家族形態であり、社会のあり方(constitution)がles éléments numériquesに伸延される過程である。よって男女比不均衡はcompensationである(infanticideの風習は廃絶されていると思う。いつまで続いて言うたのかは知らない)。社会は生産性に寄与する男が多くなった、報奨を得た。 Anzieu氏はこの年(1954年)31歳、少壮の精神分析医として活躍していたと推測する。人道を超える人智には思い至らなかったのか。ラカンにして人道なる感傷をすっかり排し、乾燥しきったレヴィストロースの論理を見事に暴いた。これをして究極律(finalité)と規定する、因果を超える知性のからくりを見抜いた。 因果律(causalite)か究極律(finalite)かについてラカンとレヴィストロースが論じ、こうした社会事象は両者とも究極律(finalite)で一致している(本書)。中国社会では男系での世代再生産が社会強制(contraintes)として個人にのしかかる。ネパール山村の数値要素の最適化(これもcontraintes)との共通性から、究極律の傍証として提示した。この提題は後述に委ねる。 ラカンとレヴィストロースの接点 2 了(2022年3月21 日) 次回予告:追い出したはずの神が裏口から忍び込んだ、神を怖れるレヴィストロース(2月23日予)。 追記:女児の嬰児殺しは手口を替えて東アジアで実践されている。中国で一人っ子政策が蔓延した時期(1960~2010年代)には、簡便な(手持ちできる)超音波診断装置が大いに普及した。助産師が出張して妊婦の腹に当て胎児性別を判断する。男子の徴候(睾丸)が見られなければその場で堕胎する(以上は中国留学生からの部族民の又聞き、一次資料はない。またネット情報ではインドも女児の嬰児殺しが実践されている(いた)とある)。 ラカンとレヴィストロースの接点 3 (2022年3月23日)表から追い出した神が裏口に忍び込む上 参加者Mannoniの質問に対するラカンの講釈; <Toute une tradition humaine, qui s’appelle la philosophie de la nature, s’est employée à cette sorte de lecture . Nous savons ce que ça donne. Cela ne va jamais très loin>(48頁)人社会の伝統なのか、それを自然の哲学と名付けるが、この手の講義(cette sorte de lecture)には引き出されるものだが、それがどのような効能を及ぼすかに我々は知る。決して多くに影響を与える流れなど形成しない。 Mannoni 質問はこの文脈では触れていない。推察するしかない。引用文には不明箇所が残る。不明は1この手の講義とは何か 2自然の科学とはー2点 1については前文<Il y a un réel, un donné. Ce donné est structuré d’une certaine façon>を解いてから推測しよう。一つの現実、一つの実態は在る。実態は何がしかの様態で構造化されている。Mannoniが引き合いに出した講義とはこうした思想が盛り込まれている、あるいはそれを解説する内容と目星をつけた。すると2の自然の科学との関連に理解が至る。哲学にて「自然」を標榜すれば、それをして現実、実態の集合体とみなる思考を言う。集合体が抱える様々な要素は因果に結ばれるを旨とする。神の意思がそこに具現されると耶蘇の教条をあからさまにする場合もあるとか。 これを「自然哲学」とする。1と2の不明点が連結した。 上の引用文は以下にくだけて訳される; <Mannoni君、君が引用した講座は自然哲学を語ったもので、森羅は一つの構造を有する集合体で、構成要素はそれぞれに因果律(causalité)が、いわば機械的に、応用されるとする。それだけの哲学であり、発展性など持たないのだよ> ちなみに別文節でラカンは「ゲシュタルト心理学」を否定的に解説している。自然哲学との繋がりに思い当たるが、確信はない。ゲシュタルトとラカンの論評は別にする。 ここで一元論、因果律なる心理学を否定した。これがレヴィストロースに繋がる; <La seconde chose est de savoir si c’est ce point que visait Lévi-Strauss quand il nous a dit hier soir qu’en fin de compte il était là, au bord de la nature, saisi d’un vertige, à se demander si ce n’était pas en elle qu’il fallait retrouver les racines de son arbre symbolique>(同) その次だが。レヴィストロースは結局、昨夕ここにやって来て語ったのだが、(その言葉を理解するに)彼が視野に置いたのこの事ではないか。自然に身を委ね、目眩すら覚えたあの刹那に、己の象徴の樹(ラカン独自の言い方、思考と言い換える)の根っこを「自然」の中に求めるべきでないと。 この「自然」とは自然哲学、それを社会科学に応用すれば、事象が因果で組まれる「経験主義」「機能主義」の科学となる。とある事象を取り出して、別の言葉で置き換える実利の科学となる。その単一性に依らず、二元論に向かうレヴィストロースを決心させたのが「vertige目眩」。 部族民にはこの情景にとある著作の読み覚えを感じてしまう。Tristes tropiques悲しき熱帯12章Bons Sauvages(良き野生人)の章頭、ボロロ族の村落を探り当てた一文。 脇に逸れるが同書から<après des heures passées sur les pieds et les mains à me hisser le long des pentes, transformées en boue glissante ~ (中略)~ faim, soif et trouble mentale, certes : mais ce vertige d’origine organique est tout illuminé…>(悲しき熱帯249頁)足立ち手つきの這いずり数時間、滑る泥と化した急斜面をよじ登る。飢え、渇き、それにも増しての気落ち、しかしその時、目眩vertigeに襲われた。それは身体起因であるのだが、私は「光」に照らされたのだ。 目眩の理由はボロロ族村落をようやく発見、崖下に見下したから。這いつくばいが報われ光lumièreに照らされた。光学現象にすぎない光ながら西洋語系で天啓、啓蒙(ce qui rend clair, Le Robertから)の義をも帯びる。疲れ果てた崖淵のレヴィストロースが天啓を全身に浴び、彷徨のさなかの目眩に閃き自然哲学に決別した。その体験をラカンに語ったとラカンが、皆も聞いたよねのドヤ顔ノリで(小筆の主観)、報告した。 レヴィストロースはラカンを訪ねたのだ。日付はこのセミナー、1954年12月1日に開催されその昨夕なので11月30日火曜日となる(セミナー日付は章末に記載される)。 (同書の刊行は1955年、セミナー開催1954年12月とは時系列で合わない。一方でレヴィストロースが同書を起稿した日付は1954年10月12日。ボロロ集落を発見した下りは同書の圧巻であるから小筆も記憶にとどめていた。レヴィストロースとして、11月末には目眩、天啓の文脈は出来上がっていたと思える。とっておきの予告編としてこの挿話をラカンに伝えた。そう解釈すればvertigeとlumièreとの相乗のあり様から自然哲学、一元論、因果律を遠ざけた経緯に納得がいく。 そう信じよう。信ずる者は救われる、古の格言は大事と心しよう) ラカンとレヴィストロースの接点 上 の了
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