社会に意思が備わり方向性を持つとはそれが究極律ナノじゃ、間違いだぞと後輩を諭すラカン先生はどや顔
Anzieu(精神分析医,1923~98年)。Psychanalyse de l'enfanなど著作多数。セミナー参加の時点で31歳、若手のホープだった。| 部族民通信ホームページ 開設元年6月10日 投稿2022é年5月15日 |
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続ラカンとレヴィストロースの接点 上 |
(続の無い)ラカンとレヴィストロースの接点に飛ぶ |
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目次 今回の課題 因果律(causalité)と究極律(finalité) 自我 « le moi » の確立 |
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本稿は2022年4月18日~25日Gooblogに連載投稿したサイト版となります。日付ノンブルはBlog投稿のまま残しました。 (2022年4月18日)ラカンのセミナー講演を文字起こしMillerの監修をへて刊行された作品はいずれも「セミナー」を題名にしています。そもそもラカンは「セミナー」のみを残している(小片の著作はあるかもしれない、要確認)。第2作はセミナー2、題に「Le moi dans la théorie de Freud et dans la technique de la psychanalyse,フロイトの精神分析技法における「私」の扱い」を冠している。本書III章、章題はL’univers symboliqueシンボル化の宇宙、副題に「Dialogues sur Lévi-Straussレヴィストロースについて対話」を持ちます。この章紹介は(続なしの)「ラカンとレヴィストロースの接点」としてGooBlogに3月18日から4月1日の5回投稿を寄せています。また部族民通信ホームサイト(www.tribesman.net)に掲載(4月10日)しています。 続なしの内容は章全体の紹介ではなく注目(衝撃)の3点を採り上げました。サイトご訪問様の多くは既読かと思いますが一通り説明する。1嬰児殺しを実行する社会にご褒美 2裏口から侵入する神におののくレヴィストロース 3フロイト精神分析の根底は「超越性Transcendance、先験」―となります。この先験を鍵語としてレヴィストロース構造主義、メルロ・ポンティの知覚と精神分析を比較した図表を作成した(右コラム)。20世紀半ばのフランス思潮界での傾向、施策と実態の対比がご覧いただけるかと。 1 ネパール、チベットなどの辺境での嬰児殺しの風習、対象は女児。その代償は人口の男女比の歪さ。この風習に対し「代償compensation=前出」を説明として用いるレヴィストロースに異議を定ずる参加者に、ラカンが私見を披露する。するとそれは明らかに「代償」なのである、まったくもってレヴィストロース思考を再現できる(前回と重なるので、2との関連と併せて述べる)。 2 因果律(causalité)と究極律(finalité) 3 シンボル化能(fonction symbolique) 4 個と集団は「全く同一」ラカン指摘に対するレヴィストロースの返答 5 エディプスコンプレックスに対するレヴィストロースの返答 6 近親相姦(の禁止)に対する精神分析からの解釈 盛りだくさん。「順を追いこれら解説をしていきます」―と予告(3月18日)した。 1は前回に扱った。2の因果律(causalité)と究極律(finalité)の絡まりと併せると; 発端はAnzieu(精神分析医)の質問。ネパール、チベットで実行されている女児の嬰兒殺しについての見解。この見解はラカンに否定される。社会へのご褒美なる語を用いる(compensation)正当さがラカンの(回りくどい)言で展開されている(前回)。次の話題の因果律でもAnzieuの質問が尾を引く。彼の質問は文中に採録されていないから<La question de M. Anzieu n’est pas reproduite>中身が不明。しかしそれを見極めないと「因果、究極律」と章題「シンボル化宇宙」の対比、ひいてはラカン反論の解釈が難しい。(見えない質問を)かくあるべしと以下に復元した; <女児嬰兒殺しを実践する社会は主体として「意思」を持つ。結果としての男女比の不均衡が創出される。代償と規定したレヴィストロースは間違っており、社会意思の究極finalité表現ではないか。この状態は究極相(finalité)である。>かような指摘が若き分析医Anzieuから発せられた―と想定する。本節でのラカン問答はこの「finalité」の意味合いと彼の解釈とそれへの反論にある。 ここを起点として全章の解釈に結びつけたい。(本文を読み進め気づいた。finalitéは2の含意を持つ。1が動態のfinalité、これを究極律とし静態のそれは究極相ととりあえず「仮訳」した。実は2の意義の仕組みはカントによって解決されていた。後述する) Compensationに対してのfinalité。ラカンは; <Mais votre erreur va plus loin encore quand vous parlez de finalité, quand vous croyez que Lévi-Strauss donne de l’âme à la société lorsqu’il parle de la circulation d’une famille à une autre> (41頁)しかし君の間違いはそれだけではない。究極律(finalité)と君が語り、よって家族から別家族へ(嫁の)循環交換があるとレヴィストロースはしていると君が解釈するが、社会に「意思=âme」が与えられているとの君の理解は間違いである。 Anzieu指摘では嬰兒殺しや他の族民社会で認められている嫁の循環交換は「意思を持つ」社会が企画しているから、それは社会の望む仕掛け(究極律)であり、その結末は究極相となる。社会にfinalitéが見えてくる。これをラカンは真っ向から否定する。ではラカンが構築するレヴィストロース宇宙とは。 ここでfinalitéとcausalitéの説明に入ろうとする<c’est une question de discipline d’esprit que de s’y arrêter un instant>ここに一旦、足を止めるのは(君たちの)精神訓練の課題になるからと見得を切るが、大した中身は出てこない(そもそもfinalitéはcausalitéなんかも含んで…ムニャムニャ)。若手研究者を軽くいなし、 <Quelle est l’originalité de la pensée qu’apporte Lévi-Strauss avec la structure élémentaire ?>レヴィストロースが親族の基本構造で展開した独創性とはなにか。 真っ向からfinalitéを扱わず、社会組成と絡ませる。 <Il met de bout en bout l’accent sur ceci, qu’on ne comprend rien aux phénomènes collectés depuis longtemps concernant la parenté et la famille, si on essaie de les déduire d’une dynamique quelconque naturelle ou naturalisante>(同)。 家族、親族にまつわる事象。それらを観察者、人々が長い年月を費やして集めてきた。しかるにそれを、何がしかの自然的なあるいは自然化に繋がる動態に結びつけてしまうと、理解には至らない。この書(親族の基本構造)の初めから終わりまでレヴィストロースはこの提言を強調しているのだ。 Finalité は何処に云ったのだとラカンに向かって叫びたくなった(部族民)。 続ラカンとレヴィストロースの接点 1 序の了(2022年4月18日) 次回は接点2 Finalité と精神分析構造主義 1(4月20日予) 続ラカンとレヴィストロースの接点2 Finalité と精神分析構造主義の上 (4月21日)前回(18日)最後の行、« une dynamique naturelle » 自然的な動態、この文脈の中でこうした語が用いられると « finalité » 究極律が浮かび上がる。親族構造を語るレヴィストロースを理解するに自然(究極律)を持ち込んだら不能、これが文意になる。社会は自然の動態=dynamique naturelle 究極律の言い換え=とは無縁、ここがラカンの解釈となる。 社会を統治するのは文化であって「親族の基本構造」主題がここにある。究極律finalitéを持ち込んで(レヴィストロースの社会)を説明してはならない、文化の核心にズバリ、自然科学の否定で切り込んだラカン先生の論法はさすが、脱帽。 「親族の…」序章でレヴィストロースは親族構成を「系統」対「同盟」に分けた。この峻別を通して系統内部の婚姻を近親婚と忌み下げ、その間柄の婚姻を認めない通婚の「文化」制度を作った。嫁婿は外部社会から手当するしかないが、行き当りばったりで息子と娘を交換する仕組みを文化と呼ばない。交換する相手部族を特定することで同盟が形成される。系統同盟を骨格とする社会がここに成立するとの主張です。 (この仕組が族民社会に定着したのは新石器革命以降とレヴィストロースは主張する。すると彼が述べる人社会の「自然」とは旧石器以前の状態を指す。自然を猿社会と想定してはならない。後の作品「野生の思考La Pensée Sauvage」で人は新石器革命以降に思考(具体科学)を獲得したとする。これらレヴィストロース主張とラカンのそれは歩調が合う) 社会は意思を具有し、意思自らが設定する目的へまっしぐらに向かう(これが究極律)。この目的論をレヴィストロースは排します。ラカンの用いる語の « concernant la parenté et la famille» 家族親族をレヴィストロースの用語系統同盟をと読み替えれば、社会萌芽の仕掛けがそこにあるとする彼の指摘は正鵠を射た。 彼の本貫は精神分析学、 本書の主題は自我 « le moi » の確立。この内容でレヴィストロースを引用する目的は構造主義による社会形成と、精神分析の自我の確立が同じ流れをたどるとの主張を正当化するためと見る。人の空想(imaginations)、その経時の流れを共時として溜め込んだ蓄積に、精神が乗り込んで自我(le moi )を確立する。この考えを展開する過程でレヴィストロースの社会形成論に立ち寄った、これが理由かと判断します。 レヴィストロース論を続ける; 「近親姦を実行したとて人はなんの嫌悪感も抱かない」おいおい、ムキになるなよ。私が言ってるのでないよ、レヴィストロースの意見なんだ-のアドリブが入って(41頁)、意識のみならず「生物学的に見ても族内婚(系統内婚姻、近親婚)を実施しても社会に何ら悪影響は発生しない。遺伝劣化が生まれても、いずれ排除される」の注釈が続く。この言葉は「新石器革命と同時に栽培植物と家畜の最適化が進んだ。品種改良とは近親交配の賜物である。新石器人はこの利点を熟知しながらも、人の近親婚は厳しく禁止する。人と家畜の婚(交配)の逆進性を説明するのは「文化」でしかない-と主張する「親族の…」序章と対比できる。 <Il n’y a aucune déduction possible, à partir du plan naturel, de la formation de cette structure élémentaire qui s’appelle l’ordre préférentiel>(同)好ましさの規則(婚姻で優先される間柄など、社会状況でのいろいろな選択に際し優先を定める規則)と呼ばれる(社会の)基本構造の形成因の源を、自然摂理に探ったところでいかなる説明にも行きつかない。 « Plan naturel » を自然の摂理と訳した。前回投稿で « science de nature » 自然科学をゲシュタルト心理学をほのめかすとしてラカンは排撃した。この説は心理を「自然事象の総体」として捉え、その総体は究極相に向かう…となる。ここ「総体」としての機動に破綻が認められる―これがラカンのゲシュタルト批判の基調である。返す刀で文化にも「究極相」など無いとAnzieuらを諭した。では文化とは一体何か、更にラカンを聞こう。 <Et cela, il le fonde sur quoi ? Sur le fait que, dans l’ordre humain, nous avons affaire à l’émergence totale englobant tout à l’ordre humain dans sa totalité―d’une fonction nouvelle> この一節は話し言葉で構成されている。文頭のcelaは文語体では見かけない、「今度はこれだ」とした。続くil(彼ないしそれ)は直前の男性単数(人ないし物)を受ける。「好ましい規則」が(文章の並び順で)それに当たるが、かなり前に置かれるレヴィストロースとした。会話体であれば「代名詞の飛越し紐付け」が許されるのだろう(仏文法の範囲なので自信はない)。そうすれば続く « le» に「 好ましい規則」を当てはめられ、話の筋が見えてくる。細かい差異にこだわるが解釈に繋がるのだ、許せ。 上引用の訳:今度はこれだ、彼(レヴィストロース)はそれ(優先規則)を何の上に形成しているのか。そこを語ると、人の規則をそれごとひっくるめて抱き込む泉の湧き出しみたいな総体があって、私達はそれと常に関与している(人思想が社会に入り込んでいる)、そうした事象の中で優先規則を形作っているのだ。これがとある新しい力(une nouvelle fonction)である。 1の了
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