本投稿では究極
Finalitéに対するラカンの解釈を採り上げています。この概念には相(常態)と律(動態)が窺えることに納得がいかなかったが、それについてはとっくにカントがExtrinseque
Intrinseque
見える見えない
で解決しているとのオチがつきました(蕃神)

ラカンのセミナーは当初サンタンヌ病院で開催された。後に参加者でもある高等師範学校長Hyppoliteの尽力で同校の講義室に移った。公開セミナーも持たれたと聞く。レヴィストロースが訪れたサンタンヌ病院の写真をネットから。
 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2022é年5月15日
主宰蕃神(ハカミ)義男        部族民通信  ホームページに  


続ラカンとレヴィストロースの接点 

(続接点 上に移動する)
 

 (続の無い)ラカンとレヴィストロースの接点に飛ぶ
 
 目次
社会と精神  シンボル宇宙  レヴィストロース訪問
 
 

本稿は2022418~25Gooblogに連載投稿したサイト版となります。日付ノンブルはBlog投稿のまま残しました。

続ラカンとレヴィストロースの接点3 Finalité と精神分析構造主義の下

423日)ラカンが探り出したレヴィストロース社会の形成原理は « une nouvelle fonction »であった。この語を受けてラカンは自身の用語 « La fonction symbolique »を持ち出し精神分析の概念は社会にも応用できると我田引水気味に展開する。

La fonction symbolique n’est pas nouvelle en tant que fonction, elle a des amorces ailleurs que dans l’ordre humain, mais il ne s’agit que d’amorces. L’ordre humains se caractérise par ceci, que la fonction symbolique intervient à tous les degrés de son existence. 41頁)

この象徴化能は目新しいものではない。人秩序の中で、と言ってもその原初においてのみ、それはきっかけとして働いた。ともかく人秩序なるものの形成には象徴化能が社会いたるところで介在しなければならない。

Dès que le symbole vient, il y a un univers de symboles. Si petit que soit le nombre de symboles que vous puissiez concevoir à l’émergence de la fonction symbolique comme telle dans la vie humaine, ils impliquent la totalité de de tout ce qui est humain>(42)

象徴を獲得に至れば即、そこには象徴の宇宙が立ち上がる。泉の湧き出し(前述)に認められる象徴の数がわずかであっても、人活動の全体に象徴が働く。

注:単数のsymbole及びla fonction symboliqueを人の持つ根源的思考能力としてtranscendantal(先験、カント用語)と対比させる。複数のsymbolesをレヴィストロース構造主義に於けるidée(思想)に当て、これが実はラカン用語imagination(空想)に当たると理解する。

この時点でラカンは単数の象徴化能と複数の象徴(実は空想)を使い分けるまでに思考を巡らせていない。後の段落でHyppolite(哲学者、高等師範学校長、仏国翰林院など歴任)から「fonction symboliqueとは根源の思考transcendanceだろう。ここを起点とする思索手順にimaginations空想が派生するのだろう」と指摘され「痛いところを突かれたな」と慌てるも「bien sûr, c’est la présence dans la absence…もちろん、それは無いようであるのだ」と言い逃れし切り抜けた(続のないラカンとレヴィストロースの接点で解説) 。PDF図表にてラカン精神分析とレヴィストロース構造主義の接点を改めて確認しよう。

 

ラカンセミナー今回議論の皮切り役を努めたMannoniの指摘は「社会は精神âmeを具有する」。この発言をラカンが「finalité論に繋がる」否定した。社会は主体sujetではない、象徴化能を入れる容器であるとの立場となる。社会を精神と言い換えればラカン精神分析の理解に近づく。この考え方とは異なる思想に前記のfinalité論が挙げられるが、それは「精神」に機械的運動性を内包するとなる。ゲシュタルト心理学が代表を目される。レヴィストロースはマリノフスキー(ポーランド出身の民族学者)を「機能主義」として批判している。社会を構成する要素には何らかの機能が付随するとの主張である。ここにもfinalitéが伺える。ラカンがゲシュタルト心理学を否定するのと同じ歩調を取ることに留意しよう。

本章の題はL’univers symboliqueシンボル化の宇宙」。これまでfinalitéを大いに論じたが、象徴化能(fonction symbolique)を究極律(finalité)の解釈(私見)と絡めて、連続投稿の最終段として論じたい。

究極律(finalité)とは何か;

概念はギリシャに始まる(以下は各種情報のごった煮、話半分としてくれ);

アリストテレスは究極のなんとか、例えば 美とか究極の肉体« finalité physique »を提言した。この概念は中世に引き継がれ究極のナニガシ(騎士道、純愛、王女など色々あった)が語られていた。これは哲学(形而上の論法)の範囲ではない。美学、信仰、思い込みにとどまっていた。デカルトにこの概念は「うざい」と即断否定され、一時日の目を見なかった。

カントの新解釈で復活した。混乱していた概念を3に分けた。1アリストテレスを踏襲する「目に見える究極律(extrinsèque)」2目に見えない(intrinsèque3継続する(sans fin)。

1を美学、目的論に結びつけると究極の美女は「見えるfinalité」に当たる。2の見えないがカントの新展開で「システム内部のからくり、それが起動してある方向に進む」、けれどその仕組は見えない。美女を形成する人体システムの動きと言える。3の終わりなきで美女とは実は確定判断ができない。感性でも理性でも決めつけられない。靖子と文子はどっちがキレイなんて美女論争は終わりなく続く。この事実をして終わりのない究極律とする。本投稿第1回(418日)で究極を相と律に分けたが、実はカントはとっくにそれをintrinsèque extrinsèqueに分解していた。

ラカン、Anzieuらは当然カントの解釈を知り影響を受けている。1~3の規定で究極を論じていたはず。特に2を社会の主体(意思、女は少なくて良し)として1の見える結果(男女比の不均衡)につなげる(これがAnzieuの解釈)。しかし社会が主体になってはラカンが困る。なぜなら社会の究極律「見えない精神、見える結果」が精神分析に転移してしまうとラカン論と対立する。レヴィストロースにしても、そうした目的論を標榜してないからラカンがnouvelle fonctionを強調し、ついでに自説L’univers symboliqueシンボル化の宇宙を開陳したのである。こう考えています。

続ラカンとレヴィストロースの接点3 Finalité と精神分析構造主義の下の了(423日)次回は個と集団425日予定。

続ラカンとレヴィストロースの接点4 個と集団 最終回

2022425日)本連続投稿の初回(続のない接点1318日)で予告した提題の4番目は:個と集団は「全く同一」。このラカン指摘に対するレヴィストロースの返答は;

C’est bien là qu’il y a eu hier soir quelque flottement dans la réponse de Lévi-Strauss à ma question. Car, à la vérité, par un mouvement fréquent chez des gens qui introduisent des idées nouvelles. Une espèce d’hésitation à en maintenir tout le tranchant, il est presque revenu à un plan psychologique>43頁)

昨夕の話だ、私の質問に対した時のレヴィストロース答えにはなにやらぎこちなさが感じられた。 それもその筈、新しい理論を導入しようとする人は、時にこんな動きを見せるものだ。理論の刃先を研ぎつめて振り上げる。こうした状況下でも一種の躊躇を感じる、心理学理論が彼にも応用される証明ですね。

この一節でラカンの元(パリサンタンヌ病院)にレヴィストロースが訪ねたと分かる。セミナー日付は121日とあるから19541130日。きっとレヴィストロースは構造主義そして執筆中の悲しき熱帯を語ったと思われる。そのレヴィストロースを「ダンビラかざして寄らば斬るぞ」の戸惑いと描写する。ラカン先生、余裕があります。レヴィストロースへの質問とは;

Quelle solution pourrait-il attendre du mot de collectif en cette occasion, alors que le collectif et l’individuel, c’est strictement la même chose ?>集団と個は厳密に同一であるとの指摘に対して、集団なる語はいかなる意味合いになるだろうか。

質問するラカンが答えを用意している。集団と個を同一とする「とある一つの起動因」があって、それが象徴化能 « Fonction symbolique»とラカンは主張しこの持論を、レヴィストロースの返答を待たずに展開する。

Si la fonction symbolique fonctionne, nous sommes à l’intérieur…>象徴化能 が起動すると我々はその内部に潜り込む。(fonction symboliqueの議論は前回23日投稿と重なる部が多いが、文脈の流れに沿って紹介するのでご容赦)

人が思考の内部に入ってしまう、どのように理解するのか。

Dans une grande partie des problèmes qui se posent pour nous quand nous essayons de scientifiser, c’est-à-dire de ,mettre un ordre dans un certain nombre de phénomènes, au premier plan desquels celui de la vie, c’est toujours en fin de compte les voies de la fonction symbolique qui nous mènent, beaucoup plus n’importe quelle appréhension directe>(43) 例えば生命現象など色々と重なる事象を一つの秩序にまとめる、これをして科学的手順と言えようが、このときの問題とはいかなる直接理解よりも、象徴化能を通して、この科学的手順を用いることが多いのである。

直接理解とは事象、現象をありのままに解析する「科学的」手法。解析にはそのありのままは不要で、根源となる思想を探りそれを通して論を進めるべきとラカンが諭す。

これまでは社会を採り上げていたが、この文で精神に視点を移した。すると前文の<思考の内部に>が紐解ける。それを精神分析で語る深層心理と理解する。患者は自らの心の内部に沈みこむ。そこは象徴化能の島である。故に精神分析医はその現象を用いて患者心に肉薄するーと読んだ。しばらく精神分析の技法説明が続くので、その文節を飛び越える。

ここでHyppoliteが質問する。精神分析論から抜けでて、形而上の切り口を見せるから大変興味深い。

Vous avez opposé l’univers au générique, en disant que l’université était liée au symbolisme même, à la modalité de l’univers symbolique crée par l’homme. Mais c’est une pure forme. Votre mot « université » veut dire qu’un univers humain affecte la forme de l’université, il attire à une totalité qui s’universalise>47頁)あなたは宇宙(文化)と生殖界(自然)を対峙させた。宇宙は象徴に、すなわち人が形成した象徴宇宙の具体形となるが、それに繋がるとの言い方を採った。それは単に形を述べているだけではないか。あなたの語る宇宙性とは人のとある宇宙が、宇宙の形体に影響する。その宇宙の形体とは何がしかの総体があって、それは宇宙化する方向を持つ、それだけではないのか。

精神分析を云々する議論から、禅問答に昇華してしまった。クセジュ文庫を思わせる迷訳ではなんのことか分からない。Hypolitteの言い分を部族民なりに解釈すると;自然と文化を対峙させるのは当然だ、そこに象徴化を持ち込んでいるが、これは文化を熟成させるだけのもので、そこに特異性はない―と。

ラカンの返答<C’est la fonction symbolique>それが象徴化能である。

HyppoliteEst-ce que ça répond à la question ? Ça nous montre simplement le caractère formel que prend un univers humain>それは答えになっていない。あなたの言い分とは人の宇宙が採るべき形式的性格を語っていると思えるが。「宇宙が採るべき...」の言はHypolitte がラカン説を延伸解釈している。いわば助け舟だったのだが、ラカンはその示唆には乗らず、

<形式的とおっしゃたがそれは2の意味がある>とかわす、1formalisation mathématique数学的形成を例に出す。「数学的...」を気にすることはない、ラカン一流の修辞でこれが一般に膾炙される形式的。2番目の概念を彼は出してくる<Au sens gestaltiste du terme, par contre, la forme, la bonne forme, est une totalité, mais réalisée et isolée>ゲシュタルト哲学ではこれとは逆で、形とは良い形でしかない。良い形は必ず実現する、かつ孤立している。

HyppoliteEstce ce second sens qui est le vôtre, ou le premier ?> その2番目だがあなたの解釈なのか一義のそれか。

ラカン<C’est le premier, incontestablement>否定の余地もなく第一義である。持説の水平線を広げるために「自然哲学と対立するのだ」と大見得を切る。この鼻っ柱の強さがラカンの持ち前なのです。

とうとう出てきたゲシュタルト。ラカンはそれを形の哲学とし、形は目的を必ず達成する「良い形」であるとした。自然哲学la philosophie de nature(集体は一元で構成される)、自然的心理学(Mannoniの質問をラカンが遮って、否定的に答えたゲシュタルト心理学を指すと前投稿で推理した)。

自然、究極finalité、目的論の繋がりが、ラカン思考の中で明確となった。いずれもそれらを否定するのだが、その理論背景に人が形成し関与する象徴化能をおいた。

この心理分析の思想を社会に置き換えてレヴィストロースに「個=精神と集団=社会、は同一だろう」迫ったのが19541130日だった。直接の返答は結局、本セミナーで叙述されていない。そのことをして  « flottement »戸惑いを当てたのかもしれない。

続ラカンとレヴィストロースの接点4 個と集団の了(2022425日)最終

(続接点は4をもって最終とする。近親姦淫に対する両者の違いが残るが、これは別の投稿で語るつもりです。しばらくは「読む楽しみ=徳永 恂」に耽ります。蕃神)

 

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