
| 部族民通信ホームページ 投稿2022年8月15日 開設元年6月10日 |
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ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 上 ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 下 |
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| 目次 ラカンのこの説明はJungを彷彿させる フロイトに形而上の衣装を着せ付けたのをぶち壊し |
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ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 下 (GooBlogに投稿した原稿です、日付ノンブルは変えていません) ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 3 (2022年6月22日) ラカン先生が自ら持ち込んだ論議の種は; « Il y a, sur le plan de l’intuition, quelque discordance entre le principe du plaisir ainsi défini et ce que ça évoque le plaisir » かように解釈する快楽原理と、快楽が導くところの何かとの、不整合が認められる、直感ではあるが。 « intuition » 直感と訳したが直観(認識性がある)はより近い。欲望とは快楽を求めるためにあって、それを実行するよう行動を促す機能を持つ。その快楽を閉じるために人は己を律してはいないとの直観と、 « homéostat » 自律回帰を前提とする循環弁証法説は相容れない、この排他の仕組みをラカンが自問している。 フロイトの曖昧な説明が混乱を招いた。<Chacun court après chacune> それぞれが自身の解釈(interprétation、女性形)を追い求める状況になった。開陳下ばかりの自説、循環弁証法、緊張の最低位に立ち戻る、を否定するかに受ける。そしてこんな文が飛び出した。<Freud n’a-t-il pas introduit après tout la fonction de la libido dans le comportement humain ?> フロイトは何よりも先んじてリビドーの機能を人行動に当てたのではなかったか。 否定疑問文なので「人行動に当てた」肯定として解釈するのが正しい。すると行動 « comportement » の意味が理解の鍵となる。この語は個々の単一の行動を意味するのではなく反応の総体 « ensemble des réactions » (Robert) を言う(行動主義心理学派の解釈、らしい)。すると「リビドーは(性行動のみならず)人の反応総体」を支配する内的起動因となる。<Ne serait-elle pas, cette libido, quelque chose d’assez libidineux ?> ここでのリビドーはよりリビドー的な何かであって然るべきだろう(106頁)。 フロイトはリビドーを性衝動とした。それを拡大し人の衝動反応の総体としようとする、ラカンのこの説明はJungを彷彿させる。言い方は回りくどい理由はJung説に加担するかと取られないため。しかるにラカンの「フロイト拡大解釈」は注目です。続いて、 <Vous voyez que le versant de la théorie va ici en sens strictement contraire de l’intuition subjective―dans le principe du plaisir , le plaisir, par définition, tend à sa fin. Le principe du plaisir, c’est que le plaisir cesse>(107頁) 訳:フロイト説が示す処がここにおいて主体的直観とは正反対に向かうを知ることとなる。快楽の原理における快楽は、その規定からして終局を目指す。快楽の原理とは快楽の終焉に向かわしめる働きをしているのじゃ。 と自らの問を自答した。さて、 Hyppolite指摘は「原理を打ち立て、その原理が他に影響を与えるとフロイトに書かれている(ダーウインにも通じる所がある)」。その主たる原理が快楽の原理。これまでのラカン説明からそれを纏めると 1 快楽を得て神経系が活性化すると活性の最低値に戻る規則を持つ(循環弁証法と命名) 2 快楽を性衝動に限定しない、行動総体の発生と収束への起因となる 3 弁証法に支配されるが(性衝動だけではない)一般化と自発性が認められる。すると内から発露する感情 « affect » と共通する処がある(部族民解釈) 困った一点が浮かび上がる。快楽の原理に関連する« le principe de réalité » 現実の原理、こちらは欲望の即実行を阻む « Entrave, ajourner » 足かせ引き伸ばしを受け持つ、「活性の低位安定」が主たる機能である。ラカンはこの機能までを快楽原理に押し込んでいる。快楽原理が両方を統括するのであれば現実原理の立ち位置が見えなくなってしまう。 <Que devient dans cette perspective le principe de réalité> この視界の中で現実の原理はどんな位置を占めるのか(107頁)はラカンの自問。彼の説明は後回しにして、両の原理がフランス思想界、21世紀でどのように理解されているかを探ると。 <Le principe de plaisir constitue un des deux principes réagissant le fonctionnement mental : l’activité psychique, dans son ensemble, a pour but d’éviter le déplaisir et de procurer le plaisir>快楽の原理は精神を司る2の原理の1にして、苦痛を避け快楽を求める霊的活動である(Étude Psychanalytique, Larousse Encyclopédie 電子版) ラカンが語る循環弁証法、活性と不活性を行ったり来たりの説明は一切見えない。では « réalité » については; <Ce nouveau principe (= celui de réalitéのこと,フロイトが提唱したのは1911年 ) synthétise la capacité du sujet à prendre en compte les entraves à l’accomplissement de ses désirs qu’il rencontre dans le monde réel>この新らたな原理は個体の精神機能を統合する、現実世界で自らが湧きたてる欲望に足かせを当て引き伸ばす機能を受け持つ(ネット哲学サイト1000idcg.com.découvrir les 5 secretsから) 。 両原理の説明を2の引用源に分けた。Plaisirの説明に引用したLarousse電子版からréalitéを持ち出すと歯切れが悪い(理解出来ない)。一方1000idcgサイトはréalitéには行数が多いがplaisirに語を費やしていないが理由です。どうも2の原理を同時掲載すると一方が軟弱化してしまう怖れを避けたか、邪推です。2のサイトを用いて2説明を合体すると何故か筋が通る。その一本筋とは: ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 3 了(6月22日、次回24日最終) ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 4(6月24日、最終) « Le principe du plaisir » では衝動が内的に亢進し実践に向かうとする精神作用となる。一方 « le principe de réalité » は現実世界から刺激を受け欲望を感じるものの、すぐさまの実行を踏みとどまらせる精神作用とする。両者は補完して欲望行動のすべて、すなわち実現と踏みとどまりを支配する。 引用した(前回22日投稿)サイトの信用は確かなものであるから、こうした解釈が(仏国の精神分析界隈で)一般であろうと推察したい。欲望と現実の原理が実践と抑制に分化されて、2として補完、一体に働く。これでフロイトの謎掛けが解けた、めでたし。ラカンの解釈、循環弁証法の概念は部分的にも見出されないけれど。 しかしこの近代的解釈はいかにも格好が悪い。 とくに « le principe de réalité » 現実原理をこのように形而下に、言い換えれば即物でカタをつける説明は読むに苦しい。 精神「分析」学としての説明でしょうか、あれほどラカンがフロイト説に形而上の衣装を着せ付けたのを、ぶち壊している。 とっさに行動、向こう見ずへのブレーキならば社会常識、法律あるいは中学校性教育の指導範囲だと思うのです。精神の動きを物として説明するこうしたネットサイトの世界とは、全く異なる次元でフロイトは思弁活動を続けていた。心理の重層、体験の沈下、下層に沈みこむ後ろ向き心理の記憶。それが時として無自覚に、心理の重なりを打ち破って吐出して、個を苛む。こうした複雑系を心理が抱えるから、人が自我を確定できるのですとフロイトは言う。 自己の気づかない精神の仕掛けが、個の立ち様と行動を支配すると説いてきたのです。形而上で精神を解き明かそうとする思弁が臨床、病例の説明に影を落としている。 中学校性教育者が諭す教訓がフロイト精神分析ですよと教えられても嬉しさなど感じない(部族民の主観)。 ラカン先生にして、他のあまた精神分析家が70年前から唱えていて(上引用の元となった)即物説明の聞き難さを心苦く感じていた筈です。看過は許さじ、不退転の構えで両原理の対比と相違に(Hyppolite指摘を受けて)休み時間に頭を巡らせたのです。 ここで<Que devient dans cette perspective le principe de réalité> この視界の中で現実の原理はどんな位置を占めるのか(107頁)=前出、ラカンの自問に戻ります。 まずは<Le principe de réalité est en général introduit par cette remarque…>現実原理には一般的に次の解釈を与えられている。(引用は略)快楽を追求しすぎると身体の変調が起こるなどの実例を挙げ<C’est ainsi qu’on nous écrit la genèse de ce qu’on appelle l’apprentissage humain>こんなところに « apprentissage修得 » の起源があるのだと人が語っているよ、放り投げるかの口調。なぜならこの口調は主流だった一般的解釈を記したもので、これをラカンは認めない。それら主張の趣旨「現実を体験して行動指針を習得する、故に直情には走らない」―は精神分析ではないとラカンは否定する、流石に「中学性教育」の言葉は出なかったが。 その直後に<Dans la perceptive qui est la nôtre, cela prend évidemment un autre sens>私たちの見方では、それは全く別の方向性を持つ。 この « un autre sens別の方向性 » を説明するにGribouille(間抜けうっかり、Gは大文字なのでうっかり氏)の顛末を紹介する。うっかり氏は埋葬に立ち会った「bonne fête立派なお祭りだ」と言った。立ち合い者から罵られた。家に戻ると家族から「埋葬ではお祭りなんて口にしない、Dieu ait son âme神のお助けあれと言うのだ」とたしなめられた。翌日結婚式に呼ばれ「神のお助けあれ」と祝辞を述べたら花婿家族に小突かれた。 <L’apprentissage tel que le démontre l’analyse, et c’est à quoi nous avons affaire les premières découvertes analytiques ― le trauma, la fixation, la reproduction, le transfert. Ce qu’on appelle dans l’expérience analytique l’intrusion du passé dans le présent est de cet ordre-là>(108頁) 訳:この挿話の教訓とは精神分析学が初にしてあらわにした「修得」となるもので、トラウマ、固定、再生産、転移の組み合わせである。それは過去経験が現在精神に侵入したもので、その順番は上に書き留めた通りである。 部族民なりの理解を記す。 トラウマle trauma、固定la fixation、再侵入la reproduction、転移le transfert。これらは精神分析の学術用語となる、訳は蕃神の私訳なので定訳とは差異があるかと思う。これらの概念を説明するに部族民は全くもって適任でないが、語感から受け止められる意味合いを頼りに挑戦するとトラウマは心傷、固定はそれを思い締め深層に封じる、同様経験に接し心傷の再侵入を許す、つらい思いを別事象に転移するなどとなるー過去は消えず心理の奥に心傷はこもる。この一連の過程をうっかり氏が修得 « apprentissage » を通して、小突かれたりして、体験したのである。 丁寧にも教育での修得を反対概念に用いて、精神分析とはなにかをラカンは付け加えている。 <Qu’est-ce que dévoile l’analyse ― sinon la discordance foncière, radicale, des conduites essentielles pour l’homme, par rapport à tout ce qu’il vit ? La dimension découverte par l’analyse est le contraire de quelque chose qui progresse par adaptation, par approximation, par perfectionnement. C’est quelque chose qui va par sauts, par bonds. 訳:人は生き体験を重ねる、体験と個の関わり合いで、基本行動において過激かつ根本からの不調和を除いて、精神分析は何を明らかにするのか。精神分析が解明した次元とは、適応性を発揮し進展すること、大まかさで妥協すること、あるいは完成を極める努力―このような事柄とは正反対である。それは跳躍や外し飛びで進む何かである。 お分かりかと; « Adaptation, par approximation, par perfectionnement » 適応性を発揮し進展すること、大まかさで妥協する、完成を極める努力―が教育における修得です。 精神分析が主張する « le principe de réalité » とは « Le trauma, la fixation, la reproduction, le transfert » (前出)の原理となります。両を対比させると教育での過程は具体、即物的で、精神分析が説く修得は抽象、思弁的であると思います。 ラカン説では「現実原理は精神の裏に働く作用」である。ここで心理の構造性、記憶の累層性との整合が取れた。<Si vous ne pensez pas le principe du plaisir dans ce registre, il est inutile de vous introduire dans Freud. (107頁)快楽の原理をこの脈絡の中で考えない人をフロイト世界に導く意味はないーと大見得を切った訳がわかった。快楽原理と現実原理の補完関係を否定しないとフロイト2大原理の理解に至らないのじゃ。 残念ながらキッカケを作ったHyppoliteはこの時限に欠席していた。彼の反応を聞きたかったのだが(時空間移動で臨席した部族民の述懐)。 ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し4 最終の了(ブログ2022年6月24日) 後記:快楽原理は欲望リビドーを起動因としている。フロイトはそれを「性衝動」に収斂しているがラカンは一般性の衝動 « Ne serait-elle pas, cette libido, quelque chose d’assez libidineux ? » (106頁、前出) としている 。個の内面から露出するそれを « affect » とすれば精神から起動し外部対象を象徴 (symbole) として特定する « fonction symbolique » (3月18日投稿)との繋がりが見える。一方、現実原理は外部事象の有様を個が受け止め空想化する、こちらは « fonction d’imagination » に比定できる 。両の原理では精神作用の方向が逆向きになっている。これをして双方向の作用とするとラカンの循環弁証法が理解できる(部族民の私見)。 今後の予定:本稿で紹介したVII章はキルケゴールと精神分析の関連で行を閉じます。近々に快楽のはての続編として投稿します(7月中)。 |
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