
| 部族民通信ホームページ 投稿2022é年88月15日 開設元年6月10日 |
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| 精神分析現象学ゲシュタルト三題噺 下 | ラカンこれまでの投稿 ラカンとレヴィストロース の接点 続ラカンとレヴィスト ロースの接点 精神分析現象学 ゲシュタルト 精神分析快楽の果 、 繰り返し |
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| 精神分析現象学ゲシュタルト三題噺 上 精神分析現象学ゲシュタルト三題噺 中 精神分析現象学ゲシュタルト三題噺 下 (2022年8月15日投稿) (ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し に続きます) |
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| 目次 bonne forme正しい形に収束する ダーウインフロイトゲシュタルト ラカン、追い詰められる |
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精神分析現象学ゲシュタルト三題噺 下 (本稿は2022年5月16日~5月27日全6回、GooBlogに投稿した作品の加筆版となります。 ここでラカンの批判に戻ると(以下3箇条は18日の再掲なので後半省略); 1 現象学はゲシュタルト… 2 形態(=自然)を知覚するperceptionなる機能は単なる思いこみ… 3 人が世界を自身に構築する作業は積み重ね… ラカンによると現象側、場はモノを含みそれらは「bonne forme正しい形」に常に収束する。なぜなら形は場に、必ずあるがままに形成されるのであって、その必然形態が人に覚知される(場の瞬時性をこのように理解した)。 モノには特質が付属し刺激を放出する。これらの現象作用はゲシュタルトが言うところの自然構造である。ゲシュタルト思考では場の構造性は「主体」である。ヒトがその存在を知らなくても場には形体の構造、規則性、恒常性が存在する。無意識の判断、錯誤を標榜するゲシュタルト心理学では特に顕著。 Merleau-Pontyによると現象を覚知する作業は « synthèse intellectuelle » 知的統合であり、人が知覚しない限りその場espaceのモノに特質(qualité)は発現しないから存在しない 。すると場をl’unitéとして一体化するphénomèneも発生しない―と教える。場は物理的には存在する主体であっても、それが包有するphénomène現象はヒトが「既見したimaginaire(画像=Hyppoliteの規定)の客体としてのみ存在する」のである。 Gestaltがだんだん近づくと前述(20日投稿の最終文節)したが « synthèse intellectuelle » で逆転した。Gestaltと知覚現象学は別モノを宣言するこの語の意味づけ、その精緻さに部族民は感動を覚えた。知覚は人の思考の覚知作用に他ならない、知覚の現象学は分析的、形而上です。この点が部族民は現象学へのラカン難論に与しない背景となります。 場の「正しい形bonne forme=ラカンの用語」は人精神にのみ存在する。イヌの主体が人の頭にあると、ソシュールの意味論構造をひっくり返したレヴィストロースの論説と通じる。 現象と知覚の交流をMerleau-Pontyは « débats » 論争とする。特質qualitéの方向性sensを吟味し « imaginaire »を汲み出そうとするヒトの思弁活動を言い換えた換喩と読め、名句であると熱烈評価したい(哲学者は時たまこのように破格の表現を試みるものだ)。 ラカンは « perception » には、ヒトが外界を統合する能力は無いとする。« Débats » に対するラカンの言葉は « contemplation, échange » 、この内訳は精神内に経時に流れる経験を貯め込み共時に統合する。これが深層心理を形成する。直感的 « débats » に対して沈潜して複層化を企む語感との対比は明確である。ラカンの思弁性が「批判3の「瞬時の直感」では現象は「知覚」できない、批判の2」―につながる。 ラカンとMerleau-Pontyの違いは外界を認識する作業の異なりに絞れる。それを経験の空想的 « imagination » 累層(ラカン)と言うか、空間構造性の知的統合(Merleau-Ponty)とするか―認識とは個人体験の経時累層(精神分析)なのか、瞬時知覚の単層導引(現象学)であるのか、この差異にまとまる。 精神分析はゲシュタルトと世界観、認識で大いに離反している。それを非分析的と非難するラカン思いこみが勢い余って、やはり精神分析とは異なる認識論を主張する現象学をその派生と判断して、論が走ってしまったのではないか。たしかにその文脈にはモノを主体とするかに受け止められる論考がうかがえる。部族民は « synthèse intellectuelle »知的統合を理解する鍵の語と採り、ラカンには « la pensée en eux de structures solides » 「強固な構造がそれら(自然)に内蔵される思想」が引っかかった。のではないかと思う次第です。 しかしここでセミナーは暗転する。Mannoniが切り口も鋭い一閃の指摘をラカンに投げかける、 精神分析現象学ゲシュタルト 4の了(2022年5月23日) 精神分析現象学ゲシュタルト 5(2022年5月25日) Mannoniが投げかけた一閃の指摘がセミナーを暗転させた。 <Cela peut dépasser quand même le plan de l’imaginaire. Je vois le germe de la pensée gestaltiste dans la pensée de Darwin. Quand il remplace la variation par la mutation, il découvre une nature qui donne de bonnes formes> 訳:それ(ゲシュタルト)は画像的考え手順を越えています。ダーウイン思想にはすでにゲシュタルトの萌芽が見て取れます。生物の差異を突然変異に置き換えた。正しい形を追求する自然をここに見つけたわけです。 なるほど自然の中で場(生物進化)の設定、主体性の確保(自然淘汰なる原理)、単方向で「bonne forme正しい形」に向かう(進化)など(ラカン定義の)ゲシュタルト思想そのものである。しかしラカン先生、この指摘をして、一般に膾炙される「フロイトはダーウイン進化論の影響を受けて精神分析を立ち上げた」に論点が収束してしまう事態を怖れた。なぜなら本家のフロイト師匠が進化論に示唆を受け、その進化論はゲシュタルトそのもの、となると精神分析学の正統後継者を自称するラカンには格好がつかない。「ゲシュタルト心理学のほうが正統なんじゃない」と突っ込まれてしまいます。 <Je ne veux pas au-delà du plan où se tient Merleau-Ponty> Merleau-Pontyについて話ししているんだから、それから外れる話題は採り上げたくないと乗ってこない。 とは言うものの、こんな時にこそ鼻柱の強さを見せてくる先生です、進化論についての自己解釈講義に発展してしまう。続く文節、 <L’idée d’une évolution vitale,…(中略)…la croyance à un progrès immanent au mouvement de la vie, tout cela lui est étranger, et il répudie expressément> 生命進化なる思想=中略、自然がより上位の形を形成しているなど進化論を彼 の論法と比定し、生命活動に内在する活動、発展の確信なる(自然科学的)思想…=は彼に馴染まない、彼はその思考を除外している。 唐突に彼 « lui, il » が出てきた。前文に出てきたMerleau-Pontyに結びつけるのが正しい読み方だが、文脈が乱れる。おそらく聴講していた参加者も「彼とは誰だい」首を傾げたのだろう、早速、続く口調にフロイトを出してきた。前文の「彼」はフロイトと目星がつく。「フロイトは臨床に近い、経験を学に発達させたのだ」説教を垂れ、フロイトにおける進化論の影響を否定する。それが、 <Comme Freud est un sujet peu porté dans ses choix à partir de position de principe, je crois que c’est son expérience de l’homme qui l’oriente. C’est une expérience médicale. Elle lui a permis de situer le registre d’un certain type de souffrance et de maladie dans l’homme, d’un confit fondamental> 訳:原理を定めその思想を尊重して論を展開する、そうした姿勢をそもそもフロイトは全く持っていない(ダーウインとは違う)。接してきた人間との関連の様でその理由は説明ができる。(患者相手の)臨床体験です。特定の苦しみ、精神の抗争、そうした病態の経験が、彼の意思をその方向に向けさせたのです。 <Expliquer le monde par une tendance naturelle à créer des formes supérieures est à l’opposé du conflit essentiel tel qu’il le voit dans l’être humain. Mais ce conflit dépasse l’être humain. Freud est comme projeté dans l’Au-delà du plaisir, qui est une incontestablement métaphysique, il sort des limites du champ de l’humain au sens organique du terme. C’est une catégorie de la pensée, à quoi toute expérience du sujet concret ne peut pas se référer. 訳:自然が傾向を持ち常により良き形に形成されるなどの理論は、彼、フロイトが見つめる生きる人の精神の抗う様とは対極にあります(ダーウインとは違うのだ、これでもか!)。しかるにこの抗争は人の手(彼の手)に余るものです。「欲望の果に」なる著作、それは正しく形而上の論ですが、それに没頭していたその時彼は、人の範疇を越えてしまった、生体系との意味ですが(頭が混乱した)。これは思想を語る作品です、そこに具体的個性(肉身の個体)への応用できないでしょう。 (ゲシュタルトとか、自然哲学などご本家様はおクビにも参考にしていないよ)ただ最後の著作でその試みをしたが、トチ狂ったね(ここまでは言ってない、フロイトへの悪口避けたと見られる。ラカン先生だって思いやりココロは持つのです)。精神分析の本道と進化論との乖離の説明に必死のラカン様子が伺えます。 今まで聞くのみだったHyppoliteがここでようやく口を開いた、聞こう。 <Je ne conteste pas du tout la crise décrite par Freud. Mais il oppose à l’instinct de mort la libido, et il la définit comme la tendance d’un orgasme à se grouper avec d’autre organismes, comme si c’était là un progrès, une intégration. Il y a donc quand même chez lui, indépendamment de ce conflit indéniable dont vous parlez et qui ne le rend pas optimiste du point de vue humain, une conception de la libido, d’ailleurs mal définie, qui affirme bien intégration plus en plus grandes des organismes. Freud le dit d’une manière nette dans son texte même(101頁). 訳:フロイトが述べるところ精神の危機を疑うつもりなど全くない。しかし彼はリビドーを死の本能と対立させている。それ(リビドー)とは一つの生体であって他の生体系と集合する傾向を持つ。進展、統合であるかに。そう考えていくと、君が説明してくれた「抗争」を否定しないけれど、それとは独立している(別個の)リビドーの概念をフロイトは考えていたのではないか。それ(精神における機械反応、ひいては精神の独立性)はフロイトを楽天的人間にするものでないし、うまく説明していないけれど、より大きな生体系に統合すると決めつけている。フロイトは著作でそれを明確に言っている。 Hyppoliteの指摘はフロイトにおける「自然の主体性」である。それはダーウィンと一脈通じるしゲシュタルト的でもあるのだ。ラカン先生、どうするね。 精神分析現象学ゲシュタルト 5の了(2022年5月25日) 精神分析現象学ゲシュタルト 6 最終回 (2022年5月27日)Hyppoliteのフロイト解釈はラカンのそれと噛み合わない。 前回(25日)引用でHyppolite はリピドー(性欲)を生体系の一部として、他の生体系要素と集合、統合する傾向を持つと指摘した。この解釈を採ると精神は主体性を持ち正しい形に向かう。すると進化論に近似する。一方ラカンはリピドーが他本能と連関、集体するなどを想定しないが、フロイト原著にそれが記されている事実は否定できない(ここは未確認)。 ともかくフロイト説はダーウインに影響を受けているとHyppoliteが指摘した。Mannoniと合わせて2段撃ちを食らったラカン先生、形勢は一気に不利になった、どうする。しかし追い詰められても慌てないのがラカンの真骨頂、頬を苦味に崩してニヤリのセリフが<J’entends> 聞いてるよ。続く文句は雪崩の怒涛か竜巻吹きまくり、 <Mais observez que la tendance à l’union―l’Eros tend à unir ― n’est jamais saisie que dans son rapport à la tendance contraire, qui porte à la division, à la rupture, et très spécialement de la manière inanimée. Ces deux tendances sont strictement inséparables. Il n’y a pas de notion qui soit moins unitaire. Reprenons cela pas à pas. (101頁) 訳:合同する傾向なるを見て取ると、まあエロスは他を取り込む一方だが、普通は、その正反の傾向との関連を理解しないと駄目だ。それを分離、破断とするが動きにおいては、こちらはとりわけ不活性、なかなか見破れない。この2の傾向(合同と分離)は一切、分離できない。単一体よりも少ない構成は考えられない。これらを一歩一歩、取り組むつもりだ。 これまでの本セミナー(Au-delà du principe du plaisir, la répétition)の論考の流れをまとめると: 1 Merleau-PontyのPhénoménologie講演について「分析的でない、Gestalt思考の一派生だとラカンが否定 2 Gestaltとはなんぞやをラカンが講釈する。モノ(自然)は主体で常に正しい形体を求める単一方向性を持つ 3 Merleau-Pontyは世界を理解する知覚を語るが、その仕組みは直感的、瞬間的で、世界を理解できない 4 Hyppoliteが「それは画像的現象学なのだ」(Gestaltではない)と指摘してから風向きに異変が生じた。 5 今回投稿(27日)でこの顛末が閉じた。 ここでセミナーは小休止を迎え、ラカン先生は自室に戻る。再開されたセミナーではMerleau-Pontyへの言及は無くなった。しかしラカン節がたっぷり聞かされるので、精神分析現象学ゲシュタルト続編として取り上げます。 では、 ここまで「知覚の現象学はゲシュタルト」なるラカン解釈は参加者から同意を得られたか。答えは;ノーと判断したい。かのHyppolite (この時点で高等師範学校哲学教授であり学校長)は明確に反対の意思を顕にした。 再開したセミナーではフロイトの学説とラカンの味付け(形而上思考で精神分析を哲学に引き上げる試み)が読める。例えば快楽原理 « principe du plaisir »についてのラカンの説明、精神2重構造を形成する要因など。これが大変面白いので「ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し」として6月中には連続投稿を再開します。 精神分析現象学ゲシュタルト 6 最終回 の了 (ブログ2022年5月27日) 精神分析現象学ゲシュタルト三題噺 下 (HP)
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