キルケゴール 罪を自覚しない人は無の存在、罪を知り信仰により自己のものとすることで人は自由を得る。キリスト教実存主義。


ラカンは心理の類創生にプラトンのDyadeを対比させ、人が抱えるコンプレックス起源にキルケゴールの罪の意識を比べる。フロイト、精神分析学を人の智の鳥瞰図の中に見つめていると言える。



 部族民通信ホームページ   投稿2022é年8月15日  開設元年6月10日
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ラカン精神分析によるキルケゴール解体 上

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 中

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 下 補遺

  目次
プラトンの想起 キルケゴールの実存と罪 
 

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 中(HP版)

GooBlog6回連続投稿された同名作品のホームサイト版となります。Blogでの日付ノンブルは変えていません

部族民の思いつきの付け焼き刃ではなく格式高い辞書からプラトンを語る;

<Platon explique la chute de l’âme humaine qui , après avoir vécu dans le monde d’  « en haut »,  est tombée dans celui du sensible en unissant à un corp. Cependant, à la vue des choses sensibles, l’âme est capable de rentrer en elle-même   pour retrouver, à la manière d’un souvenir oublié, l’essence intelligible contemplée lors de son existence antérieure : c’est la théorie de « réminiscence » >(Nathan版Dictionnaire de philo.から)

訳:天上界で生を過ごした「心âme」は地に降りて感性に取り付き人の中で一体化する。感知されうるモノを見た時に精神は、記憶としては残していないものの、前世での叡智と思弁からなる本質を取り戻すこととなる。これをして« la réminiscence » 想起とする。

人の本質は叡智にあり、その源は天上界を過ごした心にあった。心が体験した風景、判断、思弁思索などを、人が気の付かないまま心に抱え込み、あるきっかけで「想起」されるのだった。思い起こしするは形態のみではない。思索、思考も天上界からの引き継ぎである。ここがその後のプラトン理論の発展につながる。

Cogitoを人の本質とするデカルト、人が考える力はどこからもたらせられたか。天上界(神)からと決まっている。カントの先験 « Transcendantal » も天上に知の濫觴が求められる(両の哲人は実はこの点、知の本貫、には説明を入れていない)。君の別個体(アルターエゴ)が天上で生活していたのではない。天上に住まうは« âme » 心なので心が君に取り憑いたのだ。

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 2 の了 (7月8日 次回は11日)

蛇足:君と靖子嬢との因縁とは:天上でとある âme心が靖子嬢に出会った、その感性が君の心に降りてきて、靖子嬢の美形に地上でまたも惚れる。その様を蜃気楼に浮かべてしまうほどベタ惚れ原因は、天上でフラレたから。この世でもきっとフラレてしまうよ。この予言は部族民ヤッカミが発する邪心ではない、キルケゴールとプラトン、Zeigarnikがかく教えているのだ。

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 3 

(2022年7月11日)<Si l’objet naturel, le correspondant harmonique du vivant, est reconnaissable,  c’est parce que  déjà sa figure se dessine. Et pour qu’elle se dessine, il faut qu’elle ait été déjà dans celui qui va s’y conjoindre> 調和ある交流を保てる対象の、そうとあるべき本来の姿を、生きる者が覚知できるのだとすれば、(人が覚知する)以前からその形は形成されていた訳で、それが形成されるためにはその者の中にすでにその姿が固定されていなければならない。<C’est le rapport de la dyade. Toute la théorie de la connaissance dans Platon>それが二重性で、プラトンの思考の根底思想となっている。(110頁)

上引用がプラトン二重論(Dyade)のラカン解釈です。魂のみならず形体を見て確証する行為にも« la réminiscence » 想起が働く。

プラトンとキルケゴールとの繋がりとは。

<Il y a désormais le péché comme troisième terme, et c’est dans la voie de la répétition, que l’homme trouve son chemin. Voilà ce qui met justement Kierkegaard sur la voie de nos intuitions freudiennes, dans un petit livre qui s’appelle La Répétition >しかしながら(キルケゴールにおいては)第3の概念が出てくる。それが「罪」である。罪の記憶を繰り返し思い起こしながら人は生を続ける。著作「繰り返し」内容にある通り、キルケゴールはフロイトの直観と重なり合うのだ(LivreII,110頁)

キルケゴールの罪とは「心に留めた記憶に思い出し、時として人を苛む」原因とする。それが実践されるには3の過程があるとラカンは言う。文脈からそれら3を探すと第一は未達成(失敗)など後ろ向きの結果の記憶。心理学者Zeigarnikが「より深く長く悔みが続く」と証明した。第2にプラトンが説く心理の奥の前世の記憶。これは « réminiscence » 想起とされ、人は気づかなくとも精神に(罪が)宿るのである。3番目は罪と向かい合う生き様を修得する最終段階がこれにあたる。己には罪が宿るとキルケゴールが受けとめたのは、父が神を呪ったと知ったから。Wikipediaからその一節を;

<ミカエル(キルケゴール父)は不遇を呪ったことから神の怒りを買ったと信じ込み、どの子供もキリストが磔刑に処せられた34歳までしか生きられないと思い=中略=七人の子供のうち五人までが34歳までに亡くなっている。己も34歳までに死ぬだろうと確信していたキルケゴールは34歳の誕生日を迎えた日を信じることができず …>

もう一つの出来事は、

<17歳のレギーネに求婚し彼女は受諾するのだが、一年後、彼は一方的に婚約を破棄している。婚約破棄の理由についてキェルケゴール自身、「この秘密を知るものは、私の全思想の鍵を得るものである」という台詞を自身の日記に綴っている…>

2の罪と未達成が見える。

1父親が呪った罪を連鎖として己もを抱えるから34歳で死ぬはずが生き続けた、しかし罪は消えない。死は未達成のまま生を続けた。

2レギーネとの婚約。そもそも婚約が若気の無分別の罪(耽美段階での無分別行動=罪、後述)。一方的に破棄したにもかかわらず未練は残り、レギーネが結婚しても夫への気付で手紙を送る、手紙は封を切らず返送された。42歳の死で呪いの罪は浄化されるも、無分別婚約は未達成のまま生涯に残った。

罪の思い返しの様はプラトンが説く« la réminiscence » と同列であり、罪である故、繰り返し表出してはキルケゴールを苦しめる。現実原理が発動する過程は « la capture, la forme, la saisie, le jeu, la prise, le mirage, la vie » であり、キルケゴールの精神はまさにこのラカンの原理に支配されていた。さらには « mirage » 蜃気楼は苦しい黒い蜃気楼と変わっている。

キリスト教徒としてのキルケゴールの深層心理はプラトンに同調し、かつフロイト説(ほとんどラカン説)の実証であるとラカンが指摘する。

時系列としてはキルケゴールが没した翌年(1856年)にフロイトが生まれているから、フロイトがキルケゴールの思想、行動をつぶさに分析して、現実原理に採り入れた―が妥当だが、そうした解説には(罪の実存、プラトンの想起説)部族民の寡聞かもしれぬが、ラカン以外には出会っていない。もしかするとラカン的跳躍(こじつけ)かも知れぬ。

前述したがラカンが関心をもつのは行動であってキルケゴールの思想ではない。彼の行動を精神分析の手法にかけて、その「病理」を解析するために「多感な諧謔家」を選んだのだと感じ入る。

トラウマの固定には「繰り返し」が必要とされる(フロイトの臨床報告)。キルケゴールはフロイト学説に先駆けて、繰り返し体験を「実践」していた(著作Répétitions)。Zeigarnikはその理由を「未達成」なる故とし、プラトンは前世の記憶の蘇りと語った。ラカンは何を暴くか。達成に昇華すべく未達成を繰り返しても至らない、キルケゴールの心情の根底に「段階」があると教える。

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 3の了(7月11日、次回は13日)

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 4(2022年7月13日)

前回投稿の最終部は「キルケゴールの心情の根底に「段階」がある」、段階について語ります;

ラカン指摘の段階とは「キリスト教的実存主義」が行き着いた、人の生き様の3段階に他ならない。それは1 stade esthétique(耽美舞台)   2 stade éthique(倫理舞台) 3 stade religieux(信仰舞台)となります。それぞれの舞台には生き様に基準が設けられている。耽美では人は外観の様、行動の潔さなど目に見える「モノ」を重要とするなど、後の2舞台ではその題目に沿って行動する、とキルケゴールが「あれかこれか」で展開する。最終段階が人生き様の理想であり、そこに至り知覚していた存在(罪)を信仰の助けによって克服する(自由を得る)に至る。

この考えは思想でも哲学でもなく信心の範疇です。ラカンが精神分析の対象にキルケゴールを採り上げた理由は信心と実践する精神に関心があったからです。彼を哲学者として扱っていない。

段階それぞれの特質と次段階へ上昇する契機とは何か。彼の信条のキリスト教実存主義「罪の実存」を知って頂く機会にもなるかと。部族民がこの実存的展開の解説を試みるに、苦難の予兆に苛まれるので(要するに知らない)Nathan版Dictionnaire Philoから引用します。

段階とはなにか;

<La relation, par la Foi, que l’homme entretient avec Dieu, d’une manière singulière et sans passer par l’appareil de la raison, est en effet d’un cheminement en plusieurs étapes, qui correspondent aux épisodes successifs de la vie de Kierckegaard> 信仰に裏打ちされる神との対話とは、特別で理性装置(頭脳)が考えつくものではない。行程を形作るいくつかの段階(étapes) を持ち、それぞれにおいてキルケゴールの生き様となる出来事に結びつく(同書Kierckegaardの項)。(この解説は罪を自覚しない下層段階でもすでに神との対話を持つとなる。サルトル実存主義を意識した解説です)。

3に分かれる段階とは; 

1        stade esthétique(耽美舞台)は <Vivre dans l’instant, jouir de chaque moment qui passe, tel est le souci de l’esthéticien>刹那に生き、過ぎゆく瞬間を楽しみ、心配事とは耽美の実践者としての気がかりのみ…。しかしこの段階にも陰りが生ずる。<Mais l’inassouvissement du désir toujours renaissant fait éclore une critique…exige le dépassement de ce premier état.不満はひっきりなしに心に疼いて一つの批判が生まれいでる。それが第一段階から逃避するきっかけになる。心に疼く不満とは耽美行為の繰り返したところで(良心から)限界を感じているから。

その不満を実感するために「繰り返し」は必須、次段階へ上昇する契機となる。キルケゴールは繰り返しを自由(信仰)を得るための原初蹉跌と語るでしょうが、ラカンは « mirage » 幻影(現実原理の一行程)を見るからとしている。上段に落ち着けば自由が得られる、それが « mirage » 、精神分析の視点です。

 

2        stade éthique(倫理舞台)は<celui de devoir et de la bonne conscience>義務と良心の段階。一方で<Mais la vie de l’honnête homme, avec toutes les désillusions qui s’y attachent =中略= « humour » kierkegaardien conduit finalement au stade religieux > 正しき人の生にはあらゆる幻滅がつきまとう。感性を惑わさせる人の知恵 « sagesse humaine » の不安定  « précaire » を挙げる、レギーネ嬢への求婚と突然の破棄の実体験がここに現れている。知でも倫理でも自由は得られない。次の段階にケルケゴールが向かう。

 

3         stade religieux(信仰舞台)は<C’est la situation existentielle du chevalier de la foi, qui se découvre lui-même, non pas acceptant les dogmes de l’Eglise…ou l’existence du péché sera reconnue> それは信仰の実践者(le chevalier=騎士)の実存的立場となります。教会が説く信条や、智の偏向(哲学)も受け入れず、信仰にすがる。信仰への帰依が己の中から湧き、罪と向き合い自由を得る。

(以上1,2,3はDictionnaire Philo、著作「あれかこれか」の主題、ラカンの講義中身などを部族民が重層して、勝手に解釈した)

 

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 中 (HP)の了


 
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